語録提唱

語録提唱

伝心法要 第七

2016-09-21

学道の人若し直下に無心ならずんば、累劫修行すとも終に道を成ぜず。三乗の功行に拘繋(くけ)せられて、解脱を得ず。然して此の心を証するに遅疾あり、法を聞いて一念に便ち無心を得る者あり。十信十住十行十廻向に至って乃ち無心を得る者あり。十地に至って乃ち無心を得る者あり。長にても短にても、無心を得れば乃ち住(や)む。更に修すべく証すべきなし。実には所得なく、真実にして虚ならず。一念にして得ると十地にして得るとは、功用恰(あたか)も齊(ひと)しくして、更に深浅なし。祇(ただ)、是れ歴劫枉(ま)げて辛勤を受くるのみ。悪を造り善を造る、皆是れ著相なり。相に著して悪を造らば、枉げて輪廻を受け、相に著して善を造ら...

伝心法要 第六

2016-09-18

文殊は理に当たり、普賢は行に当たる。理とは真空無礙(むげ)の理、行とは離相無尽の行なり。観音は大悲に当たり,勢至は大智に当たる。維摩(ゆいま)とは浄名なり。浄とは性なり、名とは相なり。性相異ならず、故に浄名と号す。諸の大菩薩の表する所の者、人皆之あり。一心を離れず、之を悟れば即ち是なり。今、学道の人は自己の中に向かって悟らずして、即ち心外に於いて相に著して境を取る、皆道と背く。恒河沙(ごうがしゃ)とは仏説きたまわく、是の沙を諸仏菩薩、釈梵諸天、歩履して過ぎるも沙亦喜ばず、牛羊蟲蟻(ちゅうぎ)、践踏(せんとう)して行くも沙亦怒らず。珍宝馨香をも沙亦貪らず、糞尿臭穢をも沙亦悪まず。之心は即ち無心の...

伝心法要 第五

2016-09-5

十方の諸仏を供養するよりは、一箇無心の道人を供養せむに如(し)かず。何が故ぞ。無心とは一切の心なきなり。如如の体は内木石の如くにして、動かず揺るがず、外虚空の如くにして、塞せず礙(さ)えず、能所無く方所無く、相貎無く得失無し。趨(おもむ)く者は敢えて此法に入らず、空に落ちて棲泊の処なからむことを恐る。故に、崖を望んで退き、例して皆広く知見を求む。所以(ゆえ)に、知見を求むる者は毛の如く、道を悟る者は角の如し。 十方の諸仏を供養するよりは、一箇無心の道人を供養せむに如かず。 この同時代にあちこちに仏はいらっしゃる。また、過去にもいらっしゃったし、未来にもいらっしゃる。そのたくさんの仏さま...

伝心法要 第四

2016-08-8

若し仏を観じて清浄光明解脱の相を作(な)し、衆生を観じて垢濁(くじょく)暗昧生死の相を作さば、此の解を作す者は、河沙劫(がしゃごう)を歴(ふ)るも、終に菩提を得ず。相に著するが為の故なり。只此の一心、更に微塵許りの法も得べきなし、即心是れ仏なり。如今、学道の人は此の心体を悟らず、便ち心上に於いて心を生じ、外に向かって仏を求め、相に著して修行す。皆是れ悪法にして、菩提の道に非ず。 若し仏を観じて清浄光明解脱の相を作し。 われわれ衆生は坐禅を組んで仏に近づこうとする。その仏を、美しく、清浄な光輝いた存在であると考える。 衆生を観じて垢濁暗昧生死の相を作さば、 衆生、われわれ迷える者たち...

伝心法要 第三

2016-08-1

心を挙し念を動ずれば、即ち法体に乖く、即ち著相と為す。無始より巳来(このかた)、著相の仏なし。六度万行を修して、成仏を求めんと欲せば、即ち是れ次第なり。無始より巳来、次第の仏なし。但だ一心を悟って、更に少法の得べきなし、此れ即ち真仏なり。仏と衆生とは一心にして異なることなし、猶お虚空の雑もなく壊もなきが如く、大日輪の四天下を照らして、日昇る時は明天下に遍ねきも、虚空曾て明ならず、日没するときは暗天下に遍ねきも、虚空曾て暗ならざるが如し。明暗の境は自ずから相い凌脱するも、虚空の性は廓然(かくねん)として変ぜず。仏及び衆生の心も亦た此の如し。 心を挙し念を動ずれば、即ち法体に乖く。即ち著相と...

伝心法要 第二

2016-06-2

此の心即ち是れ仏、仏即ち是れ衆生なり。衆生たる時此の心減ぜず、諸仏たる時此の心添(ま)さず、乃至、六度万行、河沙(がしゃ)の功徳も、本自から具足す。若し決定(けつじょう)して此れは是れ仏なりと信ぜずして、相に著して修行し、以って功用(くゆう)を求めんと欲せば、皆な是れ妄想にして、道と相乖く。此の心即ち是れ仏、更に別の仏なく、亦別の心なし。此の心は明浄なること、猶(なお)虚空の一点の相貌なきが如し。 此の心即ち是れ仏、 皆さんちょっと目を閉じてください。今私が話している。それを自分が聞いている。そうじゃあない。もっと端的にこの声を聞いてみてください。あ、あ。聴く自分も話す私もなく、た...

伝心法要 第一

2016-04-25

伝心法要 第一 師休(きゅう)に謂(い)って曰く、諸仏と一切衆生とは唯だ是れ一心にして、更に別法なし。此の心は無始より巳来(このかた)、曾(かつ)て生ぜず、曾て滅せず、青ならず黄ならず、形なく相なく、有無に属せず、新旧を計(け)せず、長に非ず短に非ず、大に非ず小に非ず、一切の限量名言(みょうごん)、蹤跡(しょうせき)対待(たいだい)を超過して、当体便ち是、念を動ずれば即ち乖(そむ)く。猶虚空の辺際あることなく、測度すべからざるが如し。唯だ此の一心、即ち是れ仏にして、仏と衆生とは更に別異なし。但(た)だ是れ衆生は相に著して外に求め之を求むるに転(うた)た失す。仏をして仏を覓(もと)め、心を...

黄檗山断際禅師 伝心法要 序文

2016-04-13

黄檗山断際禅師 伝心法要 河東の裴休(はいきゅう)集め併(あわ)せて序す 大禅師あり、法諱(ほうき)は希運、洪州高安県黄檗山鷲峯の下に住す。乃ち曹渓(そうけい)六祖の嫡孫、百丈の子、西堂の姪なり。独り最上乗を佩(お)びて文字の印を離れ、唯、一心を伝えて更に別法なし、心体亦空にして万縁倶に寂、大日輪の虚空の中に昇って光明照耀、浄にして繊埃(せんあい)なきが如し。此れを証すれば新旧なく深浅なく、此れを説くに義解を立せず、宗主を立てず、戸庸(こよう)を開かず、直下(じきげ)便ち是、念を動ずれば即ち乖(そむ)く、然る後本仏と為す。故に其の言や簡、其の理や直、其の道や峻、其の行や孤なり。四方の学徒山...

無門関四十八則 乾峰一路(けんぽういちろ)

2016-03-31

四十八則 乾峰一路(けんぽういちろ) 乾峰(けんぽう)和尚因みに僧問う、十方(じっぽう)薄伽梵(ぼぎゃぼん)、一路涅槃門(ねはんもん)。未審(いぶか)し路頭甚麼(いずれ)の処にか在る。峰,拄杖を拈起して劃(かく)一劃(いっかく)して云く、者裏(じゃり)に在り。後に僧,雲門に請益(しんえき)す。門,扇子を拈起して云く、扇子勃跳(ぼつちょう)して三十三天に上って、帝釈の鼻孔に築著(ちくじゃく)す。東海の鯉魚(りぎょ)、打つこと一棒すれば,雨盆を傾くるに似たり。 無門曰く、一人は深深たる海底に向かって行き簸土(ひど)揚塵(ようじん)し、一人は高高たる山頂に立って白浪滔天(はくろうとうてん)す。把...

無門関四十七則 兜率三関(とそつさんかん)

2016-03-31

四十七則 兜率三関(とそつさんかん) 兜率(とそつ)悦(えつ)和尚、三関(さんかん)を設(もう)けて学者に問う、撥草(はっそう)参玄(さんげん)は只だ見性を図る。即今(そっこん)上人の,甚(いず)れの処にか在る。自性を識得すれば方(まさ)に生死を脱す。眼光落つる時作麼生(そもさん)か脱せん。生死を脱得すれば便ち去処(きょしょ)を知る、四大分離して甚れの処に向かってか去る。 無門曰く、若(も)し能(よ)く此の三転語を下し得ば、便ち以って隨処に主と作(な)り,縁に遇うて宗に即すべし。其れ或いは未だ然らずんば、麁食(そさん)は飽き易く、細嚼(さいしゃく)は飢え難し。 頌に曰く 一念普(あまね...