伝心法要 第一

語録提唱

伝心法要 第一

2016-04-25

伝心法要 第一

師休(きゅう)に謂(い)って曰く、諸仏と一切衆生とは唯だ是れ一心にして、更に別法なし。此の心は無始より巳来(このかた)、曾(かつ)て生ぜず、曾て滅せず、青ならず黄ならず、形なく相なく、有無に属せず、新旧を計(け)せず、長に非ず短に非ず、大に非ず小に非ず、一切の限量名言(みょうごん)、蹤跡(しょうせき)対待(たいだい)を超過して、当体便ち是、念を動ずれば即ち乖(そむ)く。猶虚空の辺際あることなく、測度すべからざるが如し。唯だ此の一心、即ち是れ仏にして、仏と衆生とは更に別異なし。但(た)だ是れ衆生は相に著して外に求め之を求むるに転(うた)た失す。仏をして仏を覓(もと)め、心を将(も)って心を捉えしめば、劫(ごう)を窮め形を尽くすも、終(つい)に得ること能わず。念を息(や)め慮を亡ずれば、仏自ずから現前することを知らず。

この伝心法要は、古来の読み方ですと意味をなさない部分も多いので、私なりに読んだものです。その点ご承知おきください。
この伝心法要は坐禅の急所をズバリと説いたもので、坐禅を志す者にはとてもありがたい教えです。師というのは黄檗禅師のこと、休というのは序文を書いた裴休。これは裴休が黄檗禅師から教えられた言葉を集めて、一冊にしたものです。
諸仏と一切衆生とは、唯だ是れ一心にして、更に別法なし。
私たちは仏というと、神聖なもの、迷いを離れ、悟りを開いた方、という風に思います。そして、衆生というのは我々のことです。われわれは穢れておって、まだまだ悟りには程遠い、救われるべきものであると考えがちです。
そこを黄檗禅師は、諸仏と一切衆生とは唯これ一心、同じものである。更に別法なし。何の違いもないとおっしゃっている。同じ一心であると。
ただこの心、これをどうしても我々は、意識、分別心のことであると勘違いをしてしまう。そこで、この黄檗禅師が言っている心というものは、仏心であると、仮にそのように考えておいてください。
此の心は無始より巳来、曾て生ぜず、曾て滅せず。
この仏心というものは、この宇宙発生以来、あるいは発生する以前から、かつて生ぜず、かつて滅せず。この仏心ということに関して、われわれは不滅です。死ぬということがありません。それどころか、われわれは、生まれてすらいません。そんなことはないだろうと思われる方も多いと思いますが、われわれは、生まれてすらいません。盤珪禅師がここのところをやかましくおっしゃっています。盤珪禅師は不生禅というのを提唱された。生ぜず、この不生です。不生ですべて調うと。われわれは、生まれてすらいない。敢えて滅せずと、死なないと言うまでもない。こうおっしゃっています。
この仏心というものは、この宇宙発生以来、生ぜず滅せず、そしてその仏心の働きである、仏心の現れである、われわれも生ぜず滅せずです。
われわれはお母さんからある時おギャーと生まれて、七十年八十年と生きて、いずれ死んでいくものと思っています。確かに現象としてはそうですが、それをやっているもの、われわれとして生まれたもの、われわれとして生きているもの、われわれとして死ぬもの、まあ、仏心のことです、これは、不生不滅です。般若心経にある通りです。
私たちは、自分というものがあると思っています。これが一番の勘違いです。自分なんてものは、どこにもありはしません。そうすると、生ぜず、滅せず、有無に属せず、長に非ず短に非ずということがはっきりします。
無門関の中に、奚仲(けいちゅう)造車という則があります。古代中国に奚仲という車造りの名人がいた。その奚仲があるとき、車の車輪を外し、芯棒を外し、あれを外しこれを外し、バラバラにして考え込んでいた。奚仲は何をやっていたのだろう。こういう公案です。公案というのはすべて己のことです。この場合車というのは自分のこととお考え下さい。
自分をバラバラにしてみる。首を取り、手足を取り、胴体を取り、内臓をバラバラにし、頭の中もバラバラにしてしまう。さて、どこに自分というものがあるか。
自分というものは、どこをどう探してもありません。お母さんからオギャーと、この五体を授かって生まれてきて、いろいろなことを学び、この心と体が発達して、今の心身があります。ただそこに根っこになるような自我というものはありません。ここが大切です。自我というものはありません。
自我のないこの心身と、実体のないこの世界とが、こう出会う。空と空が出会う。私の声がすると皆さんのところに声がある。外で車の音がすると、その音が皆さんのもとにある。テキストを見ればそうある。因縁ということは、そういうことです。心身と世界が出会い、ある事態が現象するけれども、そこには自我がない、実体もない。仏教でいう縁起とか因縁というのは、そういうことです。
見れば色がある、聞けば音がある、嗅げばにおいがある。ただそれだけです。そこに主体も客体もありません。
至道無難禅師が、「主なく見聞覚知する人を、生き仏とはこれを言うなり」と歌っています。主体がない、自我がない。自我なく見たり聞いたり考えたりする人を、生き仏という。自我の無い因縁の働き、縁起の存在。そこには生死も有無もありません。
この仏心というのは、生ぜず、滅せず。青ならず黄ならず。
カラスは黒い鷺は白い、われわれはそう思っています、でもカラスは自分のことを黒いなんて思っていません。鷺は自分のことを白いなんて思っちゃいません。
形なく相なく、
形と相、こう触って手触りあるものが形、見える姿を相とでも言いましょうか、まあ同じようなものです。この心には本体もなければ、姿もない。
有無に属せず。
有るとか無いとかいう存在でもない。仏教で有ると言ったら誤りです。無いと言ったら誤りです。みなさんは今、何人か趙州の無字に参じている。趙州和尚にあるとき修行僧が、犬にも仏性がありますか、仏性というのはここでいう仏心、心と同じです。犬にも仏心がありましょうか。あるに決まっている。というか、仏心が犬になっているわけです。そして公案ですから、己のこととしてとらえて、こんな私にも仏の本質がありましょうか。それに対して趙州は無と答えた。同じことを別の修行僧に問われてある時は有と答えた。ある時は無い、ある時は有る。この有無は、普通いう有無を超えたものです。
死んだ後、魂のようなものが残って転生しますか。別の世界に生まれ変わるなんてことがありますか。有る。これを常見外道と言います。いや、何にも無くなってしまう、無い。これを断見外道と言います。外道と言うのは、仏教ではないということです。
お釈迦さんの時代にも、人間は死んでも魂というものは残る、そしてその魂が生まれ変わり死に変わり、肉体は滅んでもこの自己はずっと続くと言った宗教家がいました。常見外道です。悲しいかな今仏教というと、生まれ変わり死に変わりする教えだと、輪廻転生する教えだというような誤解が、まかり通っています。仏の教えが、どこでどう曲がってしまったのか。仏教は、有る無しを超えています。
どうしても自分というものを中心にものを考えてしまうから、自我があると思っているから、自分の死後が気になるんです。そんなものはない。ただこの大宇宙のうねりの中で、縁起のうねりの中で、この心身が現れているだけ。大宇宙のうねりの、ひとうねりです。大海原の、ひと波です。波が、俺が俺がと言っている。俺は死んだらどうなってしまうのか、魂が残るのか消え去るのか。しかし波は海そのものです。海が波をやっています。ただすっと海に帰るだけです。永遠が立ち上がり、永遠に戻る、それだけです。それがいつの間にか、常見外道になり果ててしまっている。
新旧を計せず。
たとえば、この目前の空間は、新しいでしょうか、古いでしょうか。
長に非ず短に非ず。
帯に短したすきに長し。みな人間の都合です。この長さは、これっきりのものです。長くもなければ、短くもない。
大に非ず小に非ず。
太陽は巨大である、蟻は小さい。しかし、どちらもわれわれはすっと見てしまう。ここに、眼に収めてしまう。
一切の限量名言。
定義やら、概念やら、言語やら。蹤跡対待。まあ、跡形もない。相対性を超越している。
そしてここが大切なところです。
当体即ち是。
そのものがそのものである。分かりやすい言葉ですが、とても難しいところ。それがそれなんです。ああこう思いを差しはさむ余地は、一つもない。今のこの事態だけ。
念を動ずれば即ち乖く。
ああこう思えば、途端にその仏心から離れてしまう。
なお虚空の辺際あることなく、測度すべからざるが如し。
この大宇宙。まあここだけでもいいです。この目の前の空間、これをああこう言えません。この空間は、いつ生まれたか。この空間は死ぬか。この空間は青いか黄色いか。この空間はどんな形をしているか。どんな姿をしているか。大体これは有るのか、無いのか。何とも答えようがない。仏心もこの空間と同じように、ああこう言えない。
少し方向を変えて説明すれば、私たちは生まれるぞと思って生まれてきたわけではありません。気がついたらここにいた。そして思い通りにならない毎日を生きています。こうありたい、ああありたい。でも思い通りにならない。思い通りにならない毎日を生きています。そして、最後も、思いもよらずに死んでしまう。病気で、事故で。やり残したことがたくさんある。思いもよらず死んでしまう。生まれることもままならない。生きることもままならない。死ぬこともままならない。これがありがたい。思い通りにならないことがありがたい。
思い通りにならないのは、この自分が、自分のものではないからです。この自分が自分のものだったら、思い通りになる。ではこれは何か。心、仏心です。
黄檗禅師の言う、心です。仏心が、この心身をやってくれてるんです。自分じゃあない、私じゃあない。だから思い通りにならない。自分のわがまま勝手がきかない。そこがありがたい。
坐禅を組んでいて、いろんな思いが出てきます。思うまい思うまいとしても出てきます。自分が思っているんじゃないからです。自分が思っているのならば、思うまいと思えば、思いは止まるはずです。自分が思っているんじゃないんです。
だから皆さん坐禅中に、あれやこれやが出てきても、まったく気にする必要がない。放り出してしまう。その思いを放り出してしまう。何とかしようなんて思わんでいいです。放り出してしまって、すべてをそのものに任せきってしまう。思ったら思ったまま。横断歩道が、ピーポーピーポーと鳴って、聞こえたら、聞こえたまま。目の前を私が歩いて、あ、と気になったら気になったまま。すべて、そっちに任せてしまう。自分で何とかしようとしない。任せきってしまう。放下著というのは、そういうことです。この心身をすべて開放して、大きなものに、仏心に、お任せしてしまう。そして、ただこう、何もしない。なんもせんと、ただこう坐っていると、すとんと三昧に落ちます。他に行くところがない。すとんと三昧に落ちます。
坐禅というのは、作為をもってやればやるほど、遠のきます。作為なく坐ってください。ありのままのありつぶれ、とよく言います。私たちは、仏性の働きですから、仏性に任せておけばいいんです。仏性が私をやっている。言葉を換えれば、仏さんが私を、観音さんが私をやっている。それに任せきってしまう。
ただ、その仏心、仏性というのは、振り返って見ることができない。感じることも、考えることもできない。対象化できないものです。だから、成る、成り切る。私たちは、自分の寝姿を見ることはできません。でも、寝ることはできます。見ずに成る。私たちは、自分の死体を見ることはできません。もう死んでますから。でも死ぬことはできる。見ずに成り切るんです。
唯此の一心、即ち是れ仏にして、仏と衆生とは更に別異なし。
全てが心です。その心が仏である。そしてその仏と我々とは、何の違いもない。
ただ是れ衆生は相に著して外に求め、之を求むるに転た失す。
鎌倉時代の祖師方は、道元禅師、栄西禅師、法然上人、みな叡山で勉強して分かってるんです。自分は仏だと分かってるんです。ただ、納得がいかない。じゃあ、なんでこんなに苦しいんだ、なんでこんなに不安なんだ。そう考えて叡山を下ったんだと思います。
求めるからです。求心休むところ即ち無事という禅語があります。求める心がなくなったところが悟りである。これは、悟った側からの言葉でもありますが、もっと強く、求めたらいかんのだと。求めるな、と。命令形だと思ってください。求めている間は、絶対に届きません。求めるのを止めると、今の自分に戻ります。今、ここの、自分の様子。そこに学ぶんです。ここにこのまま、こうある。三昧の境地です。
之を求むるに転た失す。仏をして仏を求め、心をもって心を捉えしめば、劫を窮め形を尽くすも、終に得ること能わず。
仏が仏を求めているんです。仏心って何だろうなあ、と思っているそれが仏心です。仏って何だろうなあ、と思っているそれが仏です。念も慮も心の現われですから、ここはとても難しい。念ではないんです。慮ではないんです。仏心が念として働いているんです。仏心が慮と働いているんです。
仏をして仏を求め、心をもって心を捉えしむ。
自分の背中を追いかけているようなものです。自分が仏ですから、自分の背中を追いかけ、追いかけ、いつまでたっても追いつかない。追いかけるのを止めれば、今、ここの自分に納まる。そこが仏です。そこが心です。
念を息め慮を亡ずれば、仏自ずから現前することを知らず。
ただ、念を止めればいいんです。慮を忘ずればいいんです。サーッと美しく流れている清流には、葉っぱも浮いていれば、枝も浮いています。それも含めて流れているのが清流です。せっかくの清流に葉っぱが浮いていると言って手を突っ込めば、そこに淀みができてしまいます。余計なことです。みなさんが坐禅を組んでいて、思いが沸いてくる。それを清流のように、サーッと流す。どんなしょうもないこと、どんなくだらないこと、益体のないことが湧いてきても構いません。それを谷川のように流してください。手を突っ込んだらだめです。あ、余計な思いが出た。あ、また雑念が湧いた。これが手を出すということです。
ああ足が痛いなあー。まだ坐禅が終わらんかなー。そんな思いを谷川のように流してください。己がなければいいんです。主なく見聞覚知する人を、生き仏とはこれを言うなり。そういった境涯です。難しいですが、こんなことをずっとこの伝心法要では、言葉を換え、品を変え説いています。それを一つ一つ、お話していきたいと思います。