伝心法要②

語録提唱

伝心法要②

2021-06-6

問う、如何なるか是れ仏。師云く、即心是れ仏、無心是れ道。但(た)だ心を生じ念を動じて、有無長短、彼我能所等の心無かれ。心本(も)と是れ仏、仏本と是れ心なり。

問う、仏とは何ですか。師が言うには、心が仏であり、無心が道である。ただ、思いをおこして、有るとか無いとか、長いとか短いとか、向こうとかこちらとか、主観とか客観とかの見解をおこしてはいけない。どのようにも見なければ、心は本来仏であり、仏とは心のことである。

 

問う、如何なるか是れ仏。仏とは何ですか?というのが裴休の質問です。

師云く、即心是れ仏。黄檗禅師が答えて、この欲にまみれた心がそのまま仏である。

欲しいと思うむさぼりの心や、あの野郎と思う怒りの心は大した煩悩ではありません。一番の煩悩は、有無や彼我の見です。人の思い、考え方、見解です。欲しい、惜しいは、欲しいー惜しいーと成ってありつぶせばいい。自分の思いを見破ることは難しい。

問題は人の思いにあるということでは、エンマ様の説話を思い出します。

仏の教えを簡単な物語にしたものが説話です。次のような説話があります。ある人がエンマ様に地獄と極楽を覗かせてあげると招待された話です。

まずは地獄からと覗いてみると、部屋の真ん中においしそうなうどんが入った大鍋が置いてあります。その周りを沢山の人が囲んでいますが、その人たちは片手には長い箸が結び付けられています。うどんをすくって食べようとすると、箸が長いので、うどんは自分の後ろに行ってしまう。どんなに頑張って食べようとしても、うどんは口には入らず、ガリガリにやせ細っている。これが地獄かと震え上がったそうです。

次は極楽はと覗くと、やはり部屋の中央にうどんの鍋があり、その周りを沢山の人が囲んでいる。片手には長い箸が結んである。なんだ地獄と同じかと思っていると、その人たちはすくったうどんを、向かい側の人に食べさせてあげている。自分は向かいの人に食べさせてもらう。皆福々と太り、ニコニコしていたそうです。

地獄と極楽は、おかれた状況は全く同じです。ただ、他人のことを第一に考えると、その世界がそのまま極楽になり、自分のことばかり考えているとそこは地獄になってしまいます。

という話です。

ニュースでは、毎日宗教の違いによる争いについて報じています。宗教の違いは、頭の中の違いです。この人たちは、自分の頭に騙されている。挙句に殺し合いまでしているのです。同じ状況に置かれても、そこを極楽にするのも自分の思いです。

無心是れ道。成りきった三昧の境地には、自分もいなければ対象もありません。それを無心と言います。その無心が道です。

但だ心を生じ念を動じて、どのような考え方もしない。

有無長短、有る無い。長い短い。

彼我能所等の心無かれ。対象と自分。主観と客観。その他、一番の苦しみとなる生死。これらはすべて人間の考えです。頭の中にしかありません。このようなすべての見方、考え方は誤解です。だから、どのようにも見ない。どんな風にも考えない。

この頭を離れて、分別せずに成る。ありのままに成る。思いのベールを取る。

心本と是れ仏、仏本と是れ心なり。見解を離れ、分別、解釈をしない。心は本来完全です。すでに出来上がっています。邪魔しているのは、自分の頭、思慮分別です。