般若心経3

語録提唱

般若心経3

2020-02-6

無眼界乃至 無意識界
無無明 亦無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽
無苦集滅道

今日も初めての方が多いですね。
坐禅とは何かといいますと、思いや念を掴んだ心の手を開く稽古のことだと考えてください。
本当は何かのためにする坐禅はいけないのですが、初心の方のためにあえて申し上げます。坐禅は念を掴んだ心の手を開く練習です。
   
坐禅をしているといつも以上に思いがわいてきますね。家族のことを考えたり、友人の顔が浮かんだり。その浮かんできたものをどうしても掴んでしまう。
初心指導で、出た念は「追わず、払わず」と教わったはずです。しかし掴んでしまう。家族のことを考えてしまう。知人のことを考えてしまう。追っています。掴んでいます。
つまらないことも次々出てきます。それを抑え込もうとしたり、払おうとしたりします。これも念を掴んだ状態です。出た念を払わない。「追わず、払わず」です。
  
「追わず、払わず」は、心の手を開いた状態です。思いを掴んだら手を開いて放す。掴んだら放す。これを繰り返していると、気が付くといつも手を放しているようになります。執われない心ですね。
  
無眼界乃至 無意識界
無の眼界乃至、無の意識界
無の視野世界から無の意識世界。
  
六根とその対象である六境が合わさった世界です。無の世界です。
  
無無明 亦無無明尽
無の無明、亦た無明の尽きることも無い
無の分別、また分別が無くなることも無い。
  
ここで「海と波」のたとえをお話いたします。海とは仏、波はすべての存在だと考えてください。
私たちは今から数十年前、海からオギャーと波立ちました。これが誕生です。そして波として数十年生きます。そしていつか波は消えて元の海に還ります。これが死です。
私たちは、仏という海から生まれ、いつかその海に還る波です。
波はすべて海で出来ています。ですから海から見れば、波立ちとは海の盛り上がりにすぎません。波は海から見れば生まれてすらいません。『不生』です。波が消えても海からすれば何も起こっていません。『不滅』です。
般若心経は、すべて海からの視線で説かれています。だから「海の波」が「無の眼耳鼻舌身意」となります。
ただ2カ所だけ、波からの視線があります。波から海を見ています。1つがここです。「分別が無くなることも無い」波から見れば煩悩だらけの自分がいます。
  
乃至無老死 亦無老死尽
乃至無の老死、亦た老死の尽きることも無い。
無の老死、また老死の無くなることも無い。
  
もう1つの波からの視線がここです。「老死の無くなることも無い」。海から見れば、海の盛り上がりが消えただけの『不滅』ですが、波から見ると老死は厳然としてあります。この2カ所だけです。
  
無苦集滅道
無の苦集滅道。
無の四つの真理。
  
苦集滅道とは四諦のことです。この世界は苦の世界である。苦には原因がある。その原因をなくせばよい。そのための方法がある。この四つの真理が苦集滅道の四諦です。
ここは海からの見方です。海から見れば、『苦』も海の盛り上がった波です。苦集滅道すべて波です。海の波、「無の苦集滅道」です。