伝心法要①

語録提唱

伝心法要①

2021-04-26

黄檗断際禅師 宛陵録

裴(はい)相公師に問うて曰く、山中四五百人、幾人か和尚の法を得たる。師云く、得たる者其の数を測(はか)ること莫(な)し。何が故ぞ。道は心に悟るに在り、豈(あ)言説(ごんぜつ)在(あ)らんや。言説は祇(た)だ是れ童(どう)蒙(もう)を化するのみ。

裴相公が質問した。山中に四、五百人の修行僧がいますが、何人の方が和尚様の教えを悟っていますか。悟ったものは限りない。なぜかといえば、道は心が悟るのだ。言葉を超えている。言葉は子供を導くためのものだ。

 

裴(はい)相公師に問うて曰く、裴相公が黄檗禅師に質問した。

山中四五百人、幾人か和尚の法を得たる。多くの弟子の中で何人が真実を悟っていますか。

師云く、得たる者其の数を測(はか)ること莫(な)し。黄檗禅師が答えて言うには、悟ったものは限りない。

何が故ぞ。なぜか。

これは、裴休が宛陵の観察使だった時記録したもののようですが、裴相公とあるので、あるいは後世の手が入っているかもしれません。

私の師である鎌倉建長寺の吉田正道老師は、若いころインドに旅行されました。その時にお経によく出てくる霊鷲山にも行ったそうですが、そこがとても狭かったそうです。経典には、そこに沢山の弟子や人間以外の神々などが参集したとあります。これは大きさや数を超えているんです。だから霊鷲山には幾人でも入ることが出来る。

二祖慧可大師が見つけられなかったように、私たちの心はこのように活発に働いていますが、探すとどこにもありません。本体なく、働きだけあります。心は三昧と同じで見ることはできません。成るだけです。見ずに成る。

また皆さんの心には大小の大きさも、多い少ないの数もありません。心は相対性を超えています。だから悟ったものは数えきれないとあります。人の思いを超えたところです。言葉以前の様子です。

ここに参じてください。分別はとどきません。人の思いはしょせん大小すらも超えません。ここで自分の分別心をあきらめて手を放す。思う前に成る。分別する前の事実に成る。

大でなければ小、多いでなければ少ない、善でなければ悪、生でなければ死と自分で分けたんです。分別したんです。これを思う前にもどす。分別を掴んだ手を放す。そうすると、四五百人の弟子のうちに無数の本来仏がいることが分かります。

道は心に悟るに在り、この心は、私たちの見解の煩悩にまみれた心であり、成りきった一如の心でもあります。思う前に心は成っています。元来一如です。自分という誤解を、思い違いをなくして元の一如に還る。

豈に言説在らんや。言葉を離れています。分別を超えています。言葉とは、分別そのものです。在る物に名前を付けるのではなく、名前を付けるから在るんです。その言葉では事実には、一如の世界にはとどきません。

言説は祇だ是れ童蒙を化するのみ。言葉は子供を導くための方便につかうだけです。ここで言葉を超えて成りきります。分別で分けた世界を元にもどします。ありのままに還します。生死の迷いを離れた三昧の世界が現れます。