般若心経2

語録提唱

般若心経2

2020-02-5

舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中 無色無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
   
今日も初心の方が何人かいらしていますが、坐禅の初心者が一番苦労するのは、次々に出てくる思いにどう対処するのかということかと思います。
人の心というものは、ちょうど清流のようなものです。清流には、葉っぱも枝も流れています。これは人の心のたとえです。人の思いを葉っぱや枝に例えています。
せっかくの清流に葉っぱは不要と、取り除こうとして手を入れてしまう。するとそこに淀みができてしまう。手を突っ込まずにサーッと流す。
これが初心指導でお伝えした坐禅の心得、「追わず、払わず」です。出てくる念を連想で追わない。また邪魔なものだと払わない。「追わず、払わず」ただ念をサーッと流す。

舎利子 是諸法空相
舎利子よ、是の諸法は空の相であるから、
シャーリプトラよ、すべては空であるから、
  
不生不滅 不垢不浄 不増不減
生ぜず滅せず 汚くも清くもなく 増えも減りもしない。
  
シャーリプトラは、釈尊の弟子になる前、サンジャヤという懐疑論を説いた人の弟子だったそうです。
懐疑論というだでは断定できませんが、シャーリプトラはものを判断や解釈しない方だったのではないでしょうか。その先に空があります。
判断、解釈、分別しない。
生ぜず滅せず、汚くも清くもなく、増えも減りもしない空。
  
この自分は生まれてもいない。死ぬこともない。自我ではありません。対象化され、固定化された自我は妄想です。汚くも清くもなく、増えも減りもしない。すべての相対化された概念を離れている。
  
是故空中 無色無受想行識
是の故に空の中では、無の色、無の受想行識
空、三昧の世界では、身体は無の身体で、精神は無の精神である。
  
般若心経で、無・・・・と出てきたら、・・・が無いと読まずに、無の・・・と読んだほうがいいと思います。ものは「空、無が有と現れている」からです。
  
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無の眼耳鼻舌身意、無の色声香味触法
無の六根、無の身体と精神。
  
ここでいう無とは空のことで、ものごとに執われない境地のことです。
先日はうちのお寺でも、朝の8時を皮切りに4坐の法事がありました。もう、スタッフ総出で、一日中てんてこまい。墓地の清掃、檀家さんのご案内、お茶出し、読経、お茶かたづけ、次の檀家さんのお迎えの準備。そのとき私たちはそのことに夢中で、誰も他の余計なことに心を執われない状態でした。
  
三昧とは一所懸命のことであると、ある老師から伺いました。一所懸命に料理をする。一所懸命に掃除をする。
三昧、空とは意外と身近にあるものです。