伝心法要④
2022-01-16
問う、聖人の無心は則ち是れ仏なり。凡夫の無心は空寂に沈むこと莫(な)きや。師云く、法には凡聖無く亦た寂に沈むことも無し。法は本(も)と有にあらず、無の見を作(な)すこ莫(な)かれ。法は本と無にあらず、有の見を作すこと莫かれ。有と無とは尽く是れ情(じょう)見(けん)にして、猶(な)お幻(げん)翳(えい)の如し。所以(ゆえ)に云う、見聞は幻翳の如し、知覚は乃ち衆生なりと。祖師門中には、祇(た)だ機を息(や)め見(けん)を亡ずことのみを論ず。所以に、機を亡ずるときは則ち仏道隆(さかん)なり。分別するときは則ち魔軍熾(さかん)なり。
問う、聖人の無心は仏でしょうが、凡夫の無心は虚無に落ちませんか。師は答えて、法には凡も聖もない。また虚無に沈むこともない。法は本来有ではない。かといって無と見てはいけない。法は本来無ではない。かといって有と見てはいけない。有も無も観念であり、幻影である。だから見聞は幻影であり知覚は迷いであると言われる。この教えでは、ただ意識の働きを止め、すべての見方を止めることだけを教える。だから意識の働きを止めれば仏道は興隆し、分別すれば魔軍は熾烈となる、と言うのである。
問う、聖人の無心は則ち是れ仏なり。凡夫の無心は空寂に沈むこと莫(な)きや。
凡と聖の二つ眼の見方が残った質問です。
師云く、法には凡聖無く亦た寂に沈むことも無し。
黄檗禅師が答えて、法にはそんな相対性はないし、虚無とも関係ない。
法は本(も)と有にあらず、無の見を作(な)すこ莫(な)かれ。法は本と無にあらず、有の見を作すこと莫かれ。
私たち人間には、有るでなければ無い、無いでなければ有ると見えてしまいます。しかしそれは迷いの見方、分別です。仏の悟った事実の世界は有無の世界ではありません。
無門関の第一則は趙州の無字あるいは、趙州の狗子です。趙州の犬という公案です。
ある僧が趙州和尚に尋ねた。『犬にも仏性はありますか』趙州が答えた。『無』
またある時別の僧が同じ質問をした。『犬にも仏性はありますか』趙州が答えた。『有』
同じ質問にある時は無と答え、ある時は有と答えています。はたして仏性は無いのでしょうか。有るのでしょうか。
有と無とは尽く是れ情(じょう)見(けん)にして、猶(な)お幻(げん)翳(えい)の如し。
実は有無は頭の中にだけある観念で、現実には存在しません。仏性ももちろん有でも無でもありません。
所以(ゆえ)に云う、見聞は幻翳の如し、知覚は乃ち衆生なりと。
見聞覚知の分別は幻影です。迷いです。
祖師門中には、祇(た)だ機を息(や)め見(けん)を亡ずことのみを論ず。
禅ではどうやって意識を離れるか、どうやって分別を離れるかだけを問題にします。有と無、善と悪、生と死などに分かれてしまったらすべて迷いです。ただの観念です。有るように見えるだけで、幻影のようなものです。
所以に、機を亡ずるときは則ち仏道隆(さかん)なり。分別するときは則ち魔軍熾(さかん)なり。
意識、思いを離れるだけです。すべての見方は誤解です。問題が大小や有無など二つに分かれて見えたら、方向が違っています。
仏性は有無どちらでもありません。有無の中道ですが、中道とは中間ではありません。そこで『成る』。
無字の公案で、皆ムームー言っているのは成っているんです。成って見を離れるのが、禅のやり方です。