伝心法要 第三

語録提唱

伝心法要 第三

2016-08-1

心を挙し念を動ずれば、即ち法体に乖く、即ち著相と為す。無始より巳来(このかた)、著相の仏なし。六度万行を修して、成仏を求めんと欲せば、即ち是れ次第なり。無始より巳来、次第の仏なし。但だ一心を悟って、更に少法の得べきなし、此れ即ち真仏なり。仏と衆生とは一心にして異なることなし、猶お虚空の雑もなく壊もなきが如く、大日輪の四天下を照らして、日昇る時は明天下に遍ねきも、虚空曾て明ならず、日没するときは暗天下に遍ねきも、虚空曾て暗ならざるが如し。明暗の境は自ずから相い凌脱するも、虚空の性は廓然(かくねん)として変ぜず。仏及び衆生の心も亦た此の如し。

心を挙し念を動ずれば、即ち法体に乖く。即ち著相と為す。
今日も初めての方に初心指導をしました。数息観や随息観の説明をしました。数を数えて、数に徹する。数になりきる。呼吸に従って、呼吸に徹する。そうすると、この己と天地が一体になります。そういった状態を三昧と言います。一体となった境地を三昧と言います。そうすると、そこには己もなく、この世界もない。無いということもない。そういう境涯があらわれます。そこからこの二つに分かれた相対世界に帰ると、ああ、そうか、と分かります。自分はどこから生まれてきたのか。自分は何者なのか、自分は死んだらどうなってしまうのか。生死一大事因縁と言いますけれども、その根本の人間の生き死に分かるようになります。
ただ皆特別なことをしようとする。坐禅いうのは、まったく特別なことではありません。こう今私の声が聞こえている、これが一体の境地です。思い以前のところです。え、と思うともう壊れてしまいます。思いの世界、二元の世界になってしまいます。そこを、心を挙し念を動ずれば、即ち法体に乖くと。法体というのは一体になった境地というぐらいに考えてください、即ち法体に乖く、即ち著相と為す。
坐禅というのは、事実に徹するということです。そこに考え、思いというものが入ると壊れてしまいます。それは分別です。この見えたり、聞こえたり、まあ心を入れるととてもややこしくなりますから、五感に絞ります、眼耳鼻舌身、眼でものを見て、耳で音を聞いて、鼻でにおいをかいで、舌で味わい、体で感じる。皆さんそこに参じてください。今自分が体験しているその事態。皆さんは今にしか生きられません。今ここ、今ここ。今私の声が聞こえています。ここに参じる。住職は何を言おうとしているのか、というのは思いです。この聞こえる、あ、あ、この聞こえるということに参じてください。あ、あ。これを直感する、直に感じる。思い以前です。主客の分かれる前です。事実に参ずると、三昧の世界に入ります。頭で思っている間は、分別している間は、いつまでたっても三昧に入れません。
著相とは執着です。ナーガルジュナ、龍樹菩薩に、中論という有名な本があります。それの中で、空を定義している所があります。ある方が訳すには、空とはすべての執着を離れることである。ある学者が訳す本では、空とはすべての見方を離れることである。つまり、執着というのは、見方、考え方、解釈、判断、分別、思い。それが執着です。
いつも言いますが、皆さんはもうすでに悟っています。すでに救われています。ただそれに気が付いていない。坐禅というのはそれに気が付くための行為です。そして気が付くためには、頭でいくら考えても駄目です。念を離れなければだめです。事実に参じる。
無始より巳来、著相の仏なし。
この世がいつ始まったのか知りませんが、執着している仏なんかいない。
六度万行を修して、成仏を求めんと欲せば、即ち是次第なり。無始より巳来、次第の仏なし。
六度、六波羅蜜です。布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧と。いろいろなことをやる。いろいろなことをやって、仏になろう、悟りを開こうと考えている。順々にやっていれば仏になるだろうと。次第なり。もう皆さんすでに仏です。そして気付く時もいきなりすべてに気づきます。段階などというものはありません。
成仏を求めんと欲せば、とあります。どうしてもこの自分を何とかしたいということで、求めてしまいます。何か悟りらしいもの、何かの境地を求めてしまいます。求める限り、いつまでたってもそこには至りません。思い切って、求めることを止めてください。なにも求めない。もう自分は出来上がっている。これで良し。そうすると、自分にすっと心が収まります。求めている間は自分から外に気持ちが行っています。悟りたい、見性したい、成仏したい。全て求めることを止めると、すっと己に収まります。今ここの、自分に収まります。そしてそこに学ぶ。
但だ一心を悟って、更に少法の得べきなし。
この一心というのは、われわれの思いのことではありません。最初に申し上げたように、仏心、仏の心。その心が自分をやっています。心が、この天地をやっています。その心を悟る。
数息観を、数を数えている人は、ヒトーツ。すっと数に成ってしまう。もうなんにもない。無いということもない。無字の拈提をしている人は、ムー、これだけです。自分が無字を拈じている間は、いつまでたっても駄目です。無字に成り切る。ただそこには無だけがあります。そこには数だけがあります。
皆さん勘違いしている。自分が世界を見ている。自分が声を聞いている。そうじゃない。あるのはその事態だけです。それを後で分別すると、主観と客観、見ているものと、見られるもの、というふうに、私が、仏様を、見ている、私が、テキストを、見ている。そういうふうになってしまいます。実際あるのは、もう見るという言葉も使いたくないんですが、その見ているという事態、それだけです。そこに徹していただきたい。ただ、日常生活で、それをやるのはなかなか難しい。そこで坐禅を組んで、数に成る。無字に成る。呼吸に成る。一度成ってしまうと、すべて分かります。但だ一心を悟って、更に少法の得べきなし。それだけ。他に何にもない。
此れ即ち真仏なり。仏と衆生とは一心にして異なることなし。
仏と我々には、何の違いもありません。悟った祖師方と、例えばこの黄檗希運禅師と我々には、何の違いもありません。どちらもただこの一心です。
猶お虚空の雑もなく壊もなきが如く、大日輪の四天下を照らして、日昇る時は明天下に遍ねきも、虚空曾て明ならず。
この虚空、宇宙。まあこの目の前の空間。これはどうにも手のつけようがない。お日さんが昇って、あるいは電気をつけて、ここはこう明るくなっています。でも虚空というのは、この空間というのは別に明るくなっているわけではない。
日没するときは暗天下に遍ねきも、虚空曾て暗ならざるが如し。
電気を消せば、日が沈めば暗くなる。でもこの空間というのは別に暗くなったわけではない。どうにも手の付けようがない。人間がああこう分別を挟む隙間が一つもない。例えば、ちょっとここに、もう少し空間が欲しいなあということで、空間をここに作ろうと思っても、作ることはできない。どうもこの空間邪魔だなあ。でもこの空間を消すということもできない。色を付けることもできない。この空間というのは、生まれましたか。この空間というのは死にますか。これは、善ですか、悪ですか。これが思いです。
明暗の境は自ずから相い凌脱するも、虚空の性は廓然として変ぜず。
明るい暗いは、人間の思いです。この虚空、いつ生まれましたか。この虚空というのは、いつ滅しますか。もうなんとも手のつけようがない。
仏及び、衆生の心も亦た此の如し。
伝心法要で、黄檗禅師がずーっと説いている心、これも虚空と同じで手のつけようがない。
般若心経に不生不滅とあります。我々はあと何十年かすれば死んでしまいます。でもこの心は死なない。この我々が考えている自分というもの、皆さんが私、俺と思っているもの、それは錯覚です。どこにもありゃしない、そんなものは。自分というものを放下してしまう、放り出してしまう。自分というものが無くなると、この天地が自分になります。この天地が自分であることに気が付きます。すでにこの天地が皆さんなんです。自分なんです。ただ、ある時から、俺が俺がと言い始めて、これにとらわれてしまった。自我を真ん中において世界をみている。だからどこから生まれてきたのかが気になる。死んだらどうなるのかが気になる。何十年前に生まれて、あと何十年かしたら死んでしまう。そんな小さいものだと勘違いしてしまう。しかしこの心というものは、もっと大きなものです。無始よりこの方全く変化のない、終わりのないもの。
なかなかここのところが伝わらないけれども、人間の思いや考え方、思慮分別を見ると書いて「見」と言います。三祖は、真を求むることなかれ、ただ見を捨つべし、と仰っている。真実なんて求める必要はない。ただ見を捨てろ。すべての見方を捨てる。自分は生きてる。自分は死んでる。魂は有る、無い。自分は男だ、女だ。自分は青年だ、年寄りだ。自分は有る、無い。自分は正しい、自分は間違っている。すべての見を捨ててください。そうするとそこに仏が現成します。
こういったことを繰り返し繰り返し、黄檗希運禅師、説いてくださいます。聞いているうちに、ああ、この辺に坐禅の急所があるんだなというのが分かってきます。まず事実に参ずること。これ。こう見たらそれだけ。こう見たらそれだけ。それから、ああのこうの思う、それを念と言います。まず事実と、念の違いをはっきり分かってください。そして事実に学んでください。