伝心法要 第五

語録提唱

伝心法要 第五

2016-09-5

十方の諸仏を供養するよりは、一箇無心の道人を供養せむに如(し)かず。何が故ぞ。無心とは一切の心なきなり。如如の体は内木石の如くにして、動かず揺るがず、外虚空の如くにして、塞せず礙(さ)えず、能所無く方所無く、相貎無く得失無し。趨(おもむ)く者は敢えて此法に入らず、空に落ちて棲泊の処なからむことを恐る。故に、崖を望んで退き、例して皆広く知見を求む。所以(ゆえ)に、知見を求むる者は毛の如く、道を悟る者は角の如し。

十方の諸仏を供養するよりは、一箇無心の道人を供養せむに如かず。
この同時代にあちこちに仏はいらっしゃる。また、過去にもいらっしゃったし、未来にもいらっしゃる。そのたくさんの仏さまを供養するよりは、一人の無心の修行者を供養する方が尊いと。
何が故ぞ。無心とは一切の心なきなり。
黄檗禅師は、心という言葉をいろいろに使っています。そこが少し分かり難い。伝心法要の心、これは仏心であり、無心です。それに対して、心なきなりの心というのは、分別心のこと、善悪、迷悟、生死、有無といった分別、判断する心のことです。
如如の体は内木石の如くにして、動かず揺るがず、
この如というのが実に説明しづらいのですが、ある時は真理、あるいは、このまま、そのまま。人が考え方で、思いで、手をつけないそれそのままを如というふうに考えてもいいです。
まあここでは難しく考えずに、無心というふうに取っておいてください。無心の体は、ということです。
少し理屈っぽくなりますが、仏教学では一つの存在を三つに見ます。体相用、三大と言いますが,もちろん元は一つです。そして一つというのは、無いということです。
例えば、木。木の体。体というのは、本質とか、本体とかいうことです。木の本体。相というのは姿ということです。木が仏様の姿を取る。あるいは、柱の姿をしている。あるいは下駄の姿になる時もある。正面には、警策の相。同じ木という体が、仏になり、下駄になり、柱になり、警策になりと、様々な姿、相を取る。そして最後の用というのは働きです。仏は礼拝の対象になる。下駄には歩くという働き。柱は建物を支える、驚策は人の肩をたたく、そういう働きがある。
仏教学ではこのように、一つのものを三つの方向から見ます。本体、姿、働き。ここでは体ですから、無心の本質は、無心の本体は、というようなことです。内木石の如くにして。私は普段、無心を説くときに働きの方面から、体相用でいうならば用のところから説くことが多いです。初心指導する際も、心を無くそうとしない、心を清流の如く流す。とらわれない境涯が無心であると、このようにお話ししています。用、働きの面からお話している。ただここでは、体の方から無心を黄檗禅師は説いていらっしゃる。
坐禅を組んでいて、その時の無心の本質というものは、木や石のようなもので、動かず揺るがず。ほんとうは、次々といろいろなことが出てきますが、それは無心を働きの方から見ると、そう動いている。働いている。そしてそのまま何もない。体の方から見ると、これは実際三昧を体験してみれば、何にも無い。無いというものもない。無心の本体を三昧と見れば、木石のように、動かず、揺るがず。
外は虚空の如くにして、塞せず礙へず。
たとえば私の目の前の空間、もうどうしようもないです。手の付けようがない。
能所無く方所無く。
能所というのは、主観、方所というのは客観ということです。この空間は主観であろうか、客観であろうか。大体有るのか無いのか。
相貌無く得失無し。
空間には何の姿もないし、これが邪魔だからと言って、無くすこともできない。もう少しこの空間が欲しいなということで、増やすこともできない。なんとも手のつけようがない。無心というのは、この空間と同じように、手の付けようがない。皆さんが坐禅中に、あれやこれやで心に対して、いわば戦っています。何とかこの動き回る心を静めよう、様々な工夫をしていると思いますが、そんなことをするまでもなく、この心というものは、もともと無心です。大体自分のものですらありません。
無心というのは、もう、手のつけようがない。無心というのは、伝心法要でいう心のことです。仏心のことです。よく自力だの、他力であるのと言いますが、自力で生まれてきた人間はいません。つまりこの心身は、自分のものではありません。気が付いたらこうある。みな他力で生まれてきています。また、この世界も自分が作ったわけではない。自分と関わりなく生まれてきたものが、自分と関わりなくあるこの世界と、眼で見る、耳で聞く、匂いをかぐ、そういったことで一体になっている。
ただそこが分からない。どうしても納得がいかない。本当は何もしないというのが一番なんです。ただ、手掛かりのないまま、なにもせずに、ただ座っている、こんなことでは何年も坐禅が組めません。そこで、われわれ臨済宗には公案というものがある。あるいは、随息観、数息観という方法があります。
数と一つになる。数を数えて、数を見つめているようでは、いつまでたっても、埒が明きません。数える自分もなく、数えられる呼吸もなく、ただ数だけある。そしてその数もいずれ無くなる。唱える自分もなく、唱えられる無字もない。ただひたすら無。最初はしょうがないです。意識的に無ー、無―、とやってください。そのうちに意識を超えたところで、無字を拈提するようになります。そうすると、三昧のところに、すっと入ります。無字で。随息観で。数息観で。他の公案で。一度三昧の体験をしてみると、自分が何もしなくても悟っていたということに気が付きます。すでに救われていたということに気が付きます。まあ、どうしても見性した自分というものが残って、そこからまた新たな修行が始まりますが、それはまた別の話で、まずは三昧を、大三昧を発得して、何も無い、無いということも無いというところを、体験してみてください。ここに書いてあることがよく分かります。
趨く者は敢えて此法に入らず、空に落ちて棲泊の処なからむことを恐る。
空というのは、虚無ではありません。真空妙有。空の中にすべてがあります。これは、他宗からの攻撃も随分あったようです。禅でやっている空なんてものは、あれは虚無であると。全くの言いがかりで、真空妙有。本当に空に徹すると、まず何も無い世界というものを知ることができます。そして何も無いところから、この天と現れ、地と現れます。己と現れ、他者と現れます。この存在の裏付けには、空があります。空の裏付けには、存在があります。
故に、崖を望んで退き、例して皆広く知見を求む。
虚無に陥ってしまうことを恐れて、仏教学の方へ走ってしまう。龍樹菩薩の中観を学び、世親菩薩の唯識を学びと、どうしても学問の方へ行ってしまう。
所以に、知見を求むる者は毛の如く、道を悟る者は角の如し。
仏教学に通じた方、まあ今の時代も学者さんは沢山いますし、一般の方でも、坊さんよりも仏教学に詳しい方は大勢いらっしゃいます。知見を求むる者は毛の如し。ただ、実際に空に徹して、存在の根源を見た人は、角の如し、実に少ないと。これは昔も今も同じことです。
なんの心配もありません。無字をやっておられる方は、ひたすら無字に徹して、無字の底を抜いて、大三昧を発得して、何にも無いところに入る。世界と己が一体である事に気が付く。数息観でも行けます、随息観でも行けます。一度三昧というのを体験してください。
坐禅中何が出てきてもかまいません。それは自分のものではありません。出てくる思いは自分のものではありません。どんなことが出てきても、それは仏心の現れであると思って、それに手出しをしない。無くそうとしない。また追いかけもしない。ひたすら無字を拈提し、数を拈提し、呼吸に成りきる。そういった修業の果てに、見性というのはすぐ目の前にあります。すでに一体に成っている、三昧に入っている自分。ただ私が、自分が、俺がという我見で曇らされているだけです。坐禅でもって、その我見の眼鏡を外せば、そこは三昧の世界です。