伝心法要 第六

語録提唱

伝心法要 第六

2016-09-18

文殊は理に当たり、普賢は行に当たる。理とは真空無礙(むげ)の理、行とは離相無尽の行なり。観音は大悲に当たり,勢至は大智に当たる。維摩(ゆいま)とは浄名なり。浄とは性なり、名とは相なり。性相異ならず、故に浄名と号す。諸の大菩薩の表する所の者、人皆之あり。一心を離れず、之を悟れば即ち是なり。今、学道の人は自己の中に向かって悟らずして、即ち心外に於いて相に著して境を取る、皆道と背く。恒河沙(ごうがしゃ)とは仏説きたまわく、是の沙を諸仏菩薩、釈梵諸天、歩履して過ぎるも沙亦喜ばず、牛羊蟲蟻(ちゅうぎ)、践踏(せんとう)して行くも沙亦怒らず。珍宝馨香をも沙亦貪らず、糞尿臭穢をも沙亦悪まず。之心は即ち無心の心なり。一切の相を離せば、衆生と諸仏と更に差別なし、但(ただ)、能く無心なる即ち是れ究竟(くぎょう)なり。

今日は、菩薩の様々な徳を説いていますが、結局これはみなさんの心のことです。菩薩がいろいろ出てきますが、みな皆さんの事態であると、皆さんのことであるとしてお聞きください。
文殊は理に当たり、普賢は行に当たる。
釈迦三尊というのがあります。お釈迦さんがいらして、獅子に乗った文殊菩薩と、象に乗った普賢菩薩が両脇にいる。これは、お釈迦さまという一つの人格を、理と行に分けたものです。
理とは真空無礙の理。文殊の知恵と申しますが、その文殊の理とは、真空無礙の理。徹底した空。もう何も無い。無いということも無い。そして、何のさわりもない。真空無礙。坐禅を組んで、動中の工夫を行って、そして空に徹する。
我々は、おぎゃーと生まれて、60年70年80年生きて、いずれ死んでいきます。ただこれは我々に我見があるからです。もともと自分などと言うものはいません。意識分別があるから、なんとなく魂のようなものがあるんじゃないかと思う。前にも申し上げましたが、仏教というと輪廻転生、この肉体が滅んでも魂というものがあるという誤解が、世間にまかり通っています。そんな小さなものではありません。これはただの身心です。体であり、心であり、そこに自我というものはありません。この自我の思いがある限り、われわれは百年も生きずに無くなります。消え去ります。一度自我を離れると、この世界全部が自分になります。自分をなくすとすべてが自分になります。
行とは離相無尽の行なり。
離相無尽、形を離れ、姿を離れ、己を離れ、思いを離れ、何にも無いものが今働いています。自分というものがいない、私なんていうものはいない。でも今皆さんは、私の声を聴いている。これが、行です。何にもないものが、何にも無いものに対して、こう働いている。行というのは、働きです。自我というものはないのに、聞こえている。
観音は大悲に当たり、勢至は大智に当たる。
観音菩薩は慈悲の化身であり、勢至菩薩は智慧の化身である。これはすでに皆さんに備わっているものです。もう皆さんは出来上がっています。皆さんは悟っています。ただそれに気が付いていない。悟りというものを勘違いしている。この大宇宙が自分です。観音の大悲も、勢至の大智も、もうすでに皆さんに備わっています。それに気づくのを邪魔しているのが、我見です。俺が俺が、私が私が。
維摩とは浄名なり。浄とは性なり、名とは相なり。
維摩経の維摩居士、維摩というサンスクリット語を訳すと浄名となります。そして浄とは性なり。本性である。皆さんの本質である。名とは相なり。皆さんの姿である。皆さんの本性、真空無礙のところ、それが皆さんという、かりそめの形をとっている。そのかりそめの形が、本質である。真空無礙である。
性相異ならず。故に浄名と号す。諸の大菩薩の表する所の者、人皆之あり。
もう皆さんにはすべて備わっています。
一心を離れず。
それが黄檗禅師が伝えたい心です、一心です。初めての方は、先ほど下で、カンカン、チリチリと音がしていましたが、あれは私が皆さんに問題を差し上げて、その問題の答えを聞いている、俗にいう禅問答です。例えば、父母未生以前本来の面目はどうだ、と。自分が生まれる前どころか、自分の両親が生まれる前、あんたはどこで何をしてた?
私の霊魂はたぶん何かの動物をやっていた、そんなつまらないことじゃありません。霊魂なんてものは、ありません。それでは両親が生まれる前皆さんは何をしていたか。これが一心です。心です、仏心です。
之を悟れば即ち是なり。
すでにそうなっています。両親が生まれる前というと、気持ちが過去にいってしまう。そうではない。今私の声を聴いている、それが両親が生まれる前の皆さんです。俺じゃあないですよ、私じゃないですよ。ただ今声を聴いているそれ。素直に聞いてください。あ、あ、あとやれば、あ、あ、あと皆さんなってしまう。それが両親が生まれる前の皆さんです。とても分かりずらいかと思いますが、黄檗禅師が言いたいところはそこです。それを心と言います。それが仏心です。無心です。
今、学道の人は自己の中に向かって悟らずして、即ち心外に於いて相に著して境を取る。
どうしても何かあるんじゃないかと思って、外を探してしまう。もうすでに備わっています。それに気が付くだけです。坐禅とは、坐禅を組んで何かを得るんじゃない。どんどん捨てていく。何にも無くなるなるまで捨てて、そしてその何にも無くなったところも捨てる。そうすると、皆さんにすでに備わっているものが分かります。外をいくら探しても、何にもありません。
即ち心外に於いて相に著して境を取る、皆道と背く。
何かを探している間はだめです。真を求むることなかれ。ただすべからく見を止むべしと、信心銘にあります。求めようという気持ちをまず捨ててください。そして、すべての見方を捨ててください。自分は生きている、死んでいる。自分は善人である、悪人である。自分は有る、無い。魂でもいいです。霊魂というものは有る、無い。先ほど私は無いと言いましたが、これは有る、有るとばかり世間で言われているので、あえて無いと申しましたが、無いというのも一つの見方です。すべての見方を捨ててください。はっきりします。
恒河沙とは仏説きたまわく、是の沙を諸仏菩薩、釈梵諸天、歩履して過ぎるも沙亦喜ばず。牛羊蟲蟻、践踏して行くも沙亦怒らず。珍宝馨香をも沙亦貪らず、糞尿臭穢をも沙亦憎まず。
ガンジス川の砂、まあどこの砂でもいいです。その辺の道でもいいです。ここを仏や菩薩が歩いても、その道は全然喜ぶことはない。これは心のことを言ってます。心の譬えです。またそこを、牛や羊、虫や蟻がそこを踏んでも道は怒らないと。当たり前だと思うでしょうが、これは心のことを言ってます。どんな珍しい宝物も、道は、心は、貪らず。どんな汚い糞尿も、道は、心は、憎まない、嫌わない。ただそれがそうあるだけです。
建長寺で修行しているとき、托鉢などしていると、2階から水をかけられたり、塩を投げかけられたり、草鞋に唾を吐きかけられたり、いろいろありました。でもそれはただそれだけのことです。草鞋に唾が付いた、足に唾が付いた、それだけのことです。まずはここを透過しなければいけません。自分は何も悪いことをしていないのに、唾を吐きかけられた。衣で道を歩いていたら、いきなり殴られた。それはただそれだけのことです。自分がいるから怒りがわきます。我見をなくしてただそうある。まずはそこを通らないと先へ進めません。唾が付いているという事実、なぜという思い。まず事実に徹しないといけない。
之心は即ち無心の心なり。
これが無心です。どんなことがあっても、取り合わない。心の手で掴まない。とらわれない。それが無心です。無心の心です。
一切の相を離せば、衆生と諸仏と更に差別なし。
善悪、生死、有無、損得、そういう物を全て、一度離れなければならない。これが、真を求むることなかれ、ただ見を離るべしということです。真実なんて求める必要は全くない。ただ、すべての見方、考え方、思いを離れる。全ての相対的な、二つ眼を捨て去る。そうすれば、衆生、迷える我々と、諸仏、仏とは、差別無し。一向に変わらない
但、能く無心なる即ち是れ究竟なり。
そういうすべての見を離れること。すべの見方、考え方を離れること。これが無心である。そしてそれが究極の境涯であるということです。