伝心法要 第七
2016-09-21
学道の人若し直下に無心ならずんば、累劫修行すとも終に道を成ぜず。三乗の功行に拘繋(くけ)せられて、解脱を得ず。然して此の心を証するに遅疾あり、法を聞いて一念に便ち無心を得る者あり。十信十住十行十廻向に至って乃ち無心を得る者あり。十地に至って乃ち無心を得る者あり。長にても短にても、無心を得れば乃ち住(や)む。更に修すべく証すべきなし。実には所得なく、真実にして虚ならず。一念にして得ると十地にして得るとは、功用恰(あたか)も齊(ひと)しくして、更に深浅なし。祇(ただ)、是れ歴劫枉(ま)げて辛勤を受くるのみ。悪を造り善を造る、皆是れ著相なり。相に著して悪を造らば、枉げて輪廻を受け、相に著して善を造らば、枉げて労苦を受く。総て言下に便ち自ら本法を認取せんには如かず。此の法即ち心なり。心外に法無し。此の心即ち法なり。法外に心無し。心自ずから無心ならば、亦無心なる者無し。心を将って心を無(なみ)すれば、心却(かえ)って有と成る、黙して契うのみ。
学道の人若し直下に無心ならずんば、累劫修業すとも終に道を成ぜず。
皆さんが、もしここで端的に無心にならなければ、いくら修行しても、ついに道を成ぜず。皆さんはすでに無心です。先ほどの初心指導で、湧き出る思いを取らず捨てず、車窓の景色のようにサーッと流す、まずはそういう心境を求めてほしいとお話しました。
実は、私たちの心というものは、元来そのようにできています。ただ、これが思い以前のことなので分からない。自覚できるのは思い以後ですから。分かるということは思いの働きですから、思い以前は分からない。そこで分かろうとせずに成る、成り切る。そのための坐禅です。
直下に無心ならずんばとありますが、皆さんはもうすでに無心です。外を車が走ればその音が聞こえる。皆さんが無心であるという証拠です。何の心構えもいらない。これは無心だからです。あ、と言えば、あ、と聞こえる。これが無心です。皆さんは本来空っぽです。空っぽだから、こう聞こえるんです。見えるんです。まあ難しいところですが、これはもう、そう信じてください。皆さんはすでに無心です。悟りを開いています。
三乗の功行に拘繋せられて、解脱を得ず。
三乗の功行。まあ小乗とが大乗とか一乗とか、いろいろ分け方はありますが、そのいろいろな修行に、逆に束縛されて解脱をすることができない。己の中の仏に気が付かないのは、あれやこれやの、ああしなければいかん、こうしなければいかん、逆にそれに束縛されているからであると。
然して此の心を証するに遅疾あり。
此の心、無心の心です。仏心です。ここに気が付くのに、早い人もいれば遅い人もいる。
法を聞いて一念に便ち無心を得る者あり。
法を聞いてすぐに気が付く人もいる。
十信十住十行十廻向に至って乃ち無心を得る者あり。
例えば華厳経などでも、修業の段階を五十二に分けています。その四十位の段階を踏んで、やっと無心を得る者もある。
十地に至って乃ち無心を得る者あり。
十地というのは、十廻向のあとです。まあ長い修行をして、無心を得る人もいれば、皆さんすでに無心なんですよと聞いて、あ、そうかと分かる人もいる。
長にても短にても、無心を得れば乃ち住む。
早い遅いなんてものはどうでもいいと。
更に修すべく証すべきなし。
一度無心というものに気が付いたら、無心の体験をしたら、もうそこで修行は終わりです。
実には所得なく、真実にして虚ならず。
ところが、無心というものは、何も得るものがありません。我われは修行して、何かを得ると誤解している。坐禅を組んで、ある宗教体験をできると誤解している。まあ宗教体験がないとも言えないですけども、それ以前に、皆さんはすでに無心です。坐禅しても得るものは何も無い。逆です。玉ねぎみたいに自分を剥いて剥いて、捨てて捨てて、捨てきったところに何かがあります。得るものは何もない。
一念にして得ると十地にして得るとは、功用恰も齊しくして、更に深浅なし。
いきなり、あ、そうかと気づく者も、長い期間修行して気づく者も、その役立ち、功用、効き目、これは同じである。深い浅いなどというものはない。本当に一言の下に、見性してしまう方も中にはいらっしゃいます。でもこれは何百年に一人。みんなこう苦労して苦労して、そしてハッと気づく。ただそこには深い浅いはない。
祇、是れ歴劫枉げて辛勤を受くるのみ。
ただこの無心というものが理解できなければ、長い年月が無駄な苦労になる。長い時間をかけた修行も無駄になってしまう。
悪を造り善を造る、皆是著相なり。
善悪ともに執着である。とらわれである。
相に著して悪を造らば、枉げて輪廻を受け。
この世のいろいろなこと。金、名誉、地位そういうものに執着して悪いことをすれば、いたずらに迷いの世界を行き来する。
相に著して善を造らば、枉げて労苦を受く。
来世に執着し、見性や悟りに執着し良い行いをする。善を造る。これも無駄な労力を使うだけである。
総て言下に便ち自ら本法を認取せんには如かず。
本法。我われの本性、本性の教えです。心といっても無心といっても、仏心といっても、法といっても、皆同じものです。端的に無心を知れば、心というものを知れば、それに越したことはない。
此の法即ち心なり。
この教えが即ち心である。
心外に法無し。
この心のほかに教えらしきものは何一つない。心とは無心の心です。仏心の心です。此の心が即ち教えである。
法外に心無し。
教えのほかに、心と呼べるものもない。
皆さんも読んだことがあると思いますが、岩波文庫に、中村元先生のブッダの言葉というのがあります。あれはとても古い経典で、中でも第4章が古い。現存する仏典の中で、多分スッタニパータの第4章が一番古い。その中で、同じようなテーマが繰り返し語られています。釈尊が一般の人に尋ねられます。あなたはどんな教義を説いているんですか。どんな法を説いているんですか。どんな戒律を説いているんですか。どんな道徳を説いているんですか。それに対して釈尊は、これを説くというものが私にはないとおっしゃっています。釈尊は決まった教えを持っていません。仏教というのは、平安を得るための教えです。坐禅ももちろんそうです。釈尊が悟りを開いたのは坐禅によってです。そして、釈尊は平安を得ました。そのためには、すべて邪魔になる。教えも邪魔になる。戒律も邪魔になる。道徳も邪魔になる。かといって、教えも聞かず、戒律も守らず、道徳も守らず、それでいいかというとそうでもない。それらをすべて捨て去って、こだわることなく、執われることのないようにしろと。坐禅中の念への対処と同じです。取らず、捨てず、執われない。仏教は、執着から解脱する教えです。無心とは、執われから、解脱した境涯です。
心自ずから無心ならば、亦無心なる者無し。
無心になろう無心になろう。これがまず間違いです。皆さんはすでに無心です。私の声が聞こえている。有心ならば聞こえない。聞く気もないのに、セミが鳴いているのが聞こえる。車の音が聞こえる。仏さんの方を見れば、木花が見えてしまう。ロウソクが見えてしまう。皆さんが無心である証拠です。とても分かりづらいところですが。
心を将って心を無すれば、心却って有と成る。
心に湧き出てきたものを、心で無くそうとする。皆さんの坐禅はほとんどそうです。特に初心の方は、心に出てきたものを、心で無くそうとしている。ほっとけばいいです。放り出せばいいです。念は、出たら出たまま。止めようとしない。追いかけもしない。追うも捨てるも、念に対する執着です。思いを思いで止めようとすると、出ている念、止めようとする念、心が二つに分かれてしまいます。心というのは一つです。これが分かれてしまう。
世界と自分は元来一つのものです。それを自分が、世界を、見ている、と分別してしまう。皆さんはもともと、この宇宙と一体です。求めるから、離れてしまいます。何も求めない。坐禅に何も求めない。ただこうある。ただこう見える。ただこう聞こえる。念には関わらない。湧き出る念は、出たまま。止めようともせず、追いかけもせず、執われない。念を念でもって消そうとする。血で血を洗う様なもの。最初の血は落ちるけど、また新たな血が付く。
黙して契うのみ。
ただこのまま。ただこのまま。そして、ハッと気づく。心を二つにしないでください。先ほど数息観を初心の方に説明したときに、息は忘れてくれと。自分が、息を、数える。もう心が三つになりました。ヒトーツと、数えている自分がいる。うまく数えているかな、と確認している自分がいる。もう二つになっている。確認する自分はいらない。己を振り返らずに。内側から内側から。こう行っている自分のみ。
無字の拈提をしている方なら、ムー。うまい拈提も、下手な拈提もありません。こう内側から持っていく。確認しない。内側から、ただ無字を持っていく。数息観を持っていく。呼吸を持っていく。そういうつもりで坐禅を続けてください。必ず気づきます。無くなってしまう。無いということも無くなってしまう。
本当は、ああのこうの、あれやこれやの修業はいらない。直下に無心。皆さん無心ですから。でも、分からない。だから成りきる。無字、数息観、何でもいいです。成りきる。我々は、自分の本質を、見ることも、聞くことも、感じることもできない。心、仏心、無心。これを、見ることも、聞くことも、感じることもできない。なぜならば、心が見て聞いて感じているからです。これは絶対の主観です。振り返っては見えない。こう一方的に行く。内側からこう持っていく。見ることはできないけれども、成ることはできる。
無字や、数息観や、隋息観で、三昧に入ったところ、これを見ることはできません。見たとたんに二つに分かれて、三昧が壊れます。ただ、三昧に成ることはできます。見ずに成る。感じずに成る。成りきる。そう心がけて、お坐りください。