伝心法要 第八

語録提唱

伝心法要 第八

2016-11-1

諸の思議を絶す、故に言語道断、心行処滅と曰う。此の心是れ本源清浄仏なり、人皆此れ有り。蠢動含霊(しゅんどうがんれい)と諸仏菩薩と一体にして異ならず。祇(ただ)、妄想分別を為して、種々の業果を造るも、本仏の上には実に一物なく、虚通寂静にして明妙安楽なるのみ。深く自ら悟入せば、直下便ち是、円満具足して、更に欠くる所なし。縦使(たと)い三祇精進修行して諸の地位を歴(ふ)るとも、一念証する時に及んでは、祇、元来自ら仏なるを証するのみ。向上に更に一物をも添得せず。却って歴劫(りゃっこう)の功用を観るに、総て是れ夢中の妄為のみ。故に如来云く、我、阿耨(あのく)菩提に於いて実に所得なし。若し所得あらば、然燈仏は則ち我に授記(じゅき)を与えじと。

諸の思議を絶す、故に言語道断、心行処滅と曰う。
不思議という言葉、これは元来仏教語で、思議せず。考えない、思わないということです。また、不可思議という言葉もあります。これは、思議すべからず。思うな、考えるなという言葉です。三昧の発得、見性体験。それは思議を絶す、考えてもその体験には届きません。
我われの本性というのは言語道断である。言葉で表現することができない。かえって言語を離れなければ、その境地には到れない。心行処滅、意識の作用を絶たなければならない。自分の本源、根源にはいくら考えても届きません。全く反対の方向に行ってしまう。意識の働きを絶たなければならない。
此の心是れ本源清浄仏なり。
黄檗禅師が、伝心法要で、心を、あちらから説き、こちらから説きしてくださっています。この心は意識のことではありません。仏心であるとか、無心であるとか、そういった心です。これは、本源清浄仏なり。自己の大本、本源、我々の根源にいらっしゃる清浄なる仏である。と言っても、綺麗であるとか、汚いであるとかの清浄ではありません。何も解釈せず、何も判断せず、何も分別しない。それが本源清浄です。我々は思いで何かを探そうとします。ただこの心だけは思いが届かない。本源清浄仏には、意識は届かない。本源清浄仏と言っても、仏心、仏性と言っても、真如、法身と言っても同じです。
人皆此れ有り。蠢動含霊と諸仏菩薩と一体にして異ならず。
すべての生きとし生けるものは、此の本源清浄仏をもう持っている。皆さんはすでに悟っています。皆さんはすでに無心の状態にある。ただそれは意識以前の事態です。
今私の声が聞こえる。これが無心の証拠です。もし有心ならば、私の声が届きません。聞こうと思わなくとも、横断歩道の音が聞こえてくる。車の音が聞こえてくる。無心だからです。うるさいなー、邪魔だなー、と思って坐っている方、とんでもないことです。音は外にあるのではありません。今ここの自分の事態です。
三昧から皆さんを遠ざけているのは、思慮分別です。ここで坐禅を組んで、もういろいろなことが出てくる、それをそのまま手つかずに、思ったり考えたりしている。三昧と同じで、それを振り返らない。思ったり消えたり、思ったり消えたり。あるがままに変化をしていく。
人はみな悟りを、生まれつき持っている。さまざまな生き物と、仏や菩薩は一体にして異ならず。その根源的なあるもの、そこにおいては何も違いがない。黄檗禅師はその根源的な、すべてに遍きものを心という言葉で表しています。
祇、妄想分別を為して、種々の業果を造るも、本仏の上には実に一物なく。
妄想分別。妄想はわかりますね。分別というのは、初めての方はわかりにくいかもしれません。分別ごみというのが、いまやかましいです。燃えるゴミと燃えないゴミを分ける。ビンとカンを分ける。分別という言葉は、どちらも分けるという言葉です。善と悪を分ける。生と死を分ける。有と無を分ける。男と女を分ける。右と左を分け、北と南を分ける。われわれは、分別をする生き物です。ただそのために、元来悟っている己に気が付けない。そして迷いの世界にいるけれども、本源清浄仏。仏心仏性。この本来の自分の上には、何にも無い。
虚通寂静にして明妙安楽なるのみ。
融通無碍で、空寂で静かな境涯、霊妙で、安らかな境涯であると。ただ分別しなければ、それでいいんです。真を求むることなかれ、ただ見を離るべし。皆さんは、真実を求めている。本当の自分、真実を求めている。求めている間は、それは向こうにある。求めることを止めてください。今ここに戻ります。ただ、見を離るべし。思い考え、思慮分別を離れてください。ああであろうか、こうであろうか。すべての見解は誤解です。見を離れる。何かを得るのではなく捨てる。
深く自ら悟入せば、直下便ち是。
深い三昧に入って、はっと気が付けば、直下すなわち是。今ここが、それである。今ここが真理である。真理は求めている間は得られないけれども、求めるのをやめると、今ここの自分に帰ってきます。求めれば求めるほど、遠くへ遠ざかってしまいますが、求めることを止めると、すっとここに帰ってきます。直下すなわち是。これが、伝心法要で一番大切な言葉の一つです。直下、即今、今ここ。今私の声が聞こえているそれ。あ、あ、あ、と言えば、皆さん、あ、あ、あ、とコロッとなってしまう。皆さんが思いを挟む前のところです。思い以前だから思っても分かりません。考える以前のことなので考えても後のまつりです。思い、考え以前。直下。
皆さんが思いを挟む前。直下、即今、今ここ。皆さんいまその状態にいます。私の声が、こう素直に聞こえている。これが即今です。直下です。今ここです。これがすべてです。今外でいろいろな音が聞こえている。聞きたくもないのに、車の音が聞こえている。これが即今です。今ここです。直下すなわち是。ここのところ、よーく拈提してみてください。
円満具足して、更に欠くる所なし。
もう満ち足りていて、欠けている所はない。自分のことですよ。皆さんは、もう満ち足りていて、何一つ足りないものがない。これから修業して、無心になって、何か素晴らしい境涯を得る、そんなもんじゃありません。皆さんはすでにそうなっている。それに気が付けない。妄想分別のために。ですから見を止むべし。思いを離れる。考え方を離れる。私のこの手は、良いですか悪いですか?質問の体をなしていないですよね。どうしても考えてしまう。良い悪い。私の手は、損ですか得ですか。これも無意味に感じる。ただ私の手が、有りますか無いですかというと、有ると思ってしまう。これ有るわけじゃないんです。もちろん無いわけでもない。有無を離れた手。
仏教では、生き死にの問題が一番大切です。生き死にを、どう解決するか。ここにいる三十数人の方、百年後だれ一人いません。だれ一人いない。今皆さんは生きていると思っている、百年後の自分は死んでいると思っている。生きている死んでいる。コインの裏表。
この一枚のテキスト、表があり裏がある。表にはいろいろ書いてあるけれど、裏は白紙です。何にも書いてない。表があると思っている。裏があると思っている。じゃあ表だけの紙というものがこの世に存在するか。いくら剥いても剥いても、裏を捨てても捨てても、必ずそこには裏がある。
般若心経に、不生不滅とあります。生まれず死なずです。皆さんは、死にません。生まれてすらいません。不生不滅です。皆さんが今、自分とは何だろうなあと考えている。ちょうど太平洋に波が立つ。その波が、自分というのは何だろうなあと考えているようなものです。波というのは、海の盛り上がりです。海は仏、波は自分の譬えです。海に風が吹いて、すっと波立つ。オギャーと生まれる。ザワザワザワーと波立って、七十年、八十年。スッと海に帰る。あるものが波立っています。波は海です。その海である波が、自分とは何であろうかと考えている。それが今の皆さんの状態です。坐禅というのは、生きたまま、この波を一度海に帰してしまう行為です。それを三昧と言います。そうするとすべて分かる。自分はどこから生まれてきたのか、自分とは何なのか、自分は死後どこへ行くのか。
お釈迦様の時代から皆、私が死んだら何か霊魂のような、魂のようなものが残って、次の生があるんでしょうか?それとも何にもなくなって、消え去ってしまうんでしょうか?死後の有無が心配でしょうがない。
お釈迦様はお答えにすらならない。そんな質問は無視しています。無記と言いますが、死後の有無をお釈迦さまは無視しました。波は海です。永遠のもの、無限のものです。それが一時波の形をとっている。空即是色、色即是空です。
何にもない、というのを断見と言います。断見外道と言います。いやいや、霊魂があって、次の世がある、というのを常見と言います。常見外道と言います。外道と言うのは、仏教ではない道、仏教ではないということです。有る無し。どうしてもあると思う。この手は善か悪か、損か得か、男か女か、と問われても意味をなさない。皆さんはそこに引っかからない、でも有るか無いかと問われると、引っかかってしまう。これは有るでもなければ、無いでもない。
縦使い三祇精進修行して諸の地位を歴るとも。
三祇精進、華厳経の五十二位なんいうてあれがありますけれども、長―い間修行して、いろいろな境涯を経てきても、
一念証する時に及んでは、祇、元来自ら仏なるを証するのみ。
はっと気が付いた時、ああ、自分は生まれながらの仏じゃあないか、それに気が付くだけ。それに気が付くだけです。
向上に更に一物をも添得せず。
この心身、これはもう仏だと。元来仏であったと、気が付くだけであって、何かを得るとか、そういったことは一切ない。もともと自分が仏であったということに気が付くだけ。
却って歴劫の功用を観るに、総て是れ夢中の妄為のみ。
いろいろ十年二十年と修行してきたけれども、つまらん修行したなーっと。禅に円相というのがあります。丸です。よし、修業を始めよう、坐禅しようと思って、それから五年十年と修行してきて、はっと気が付く。これを向上の修業と言います。円の半周です。そのあとは向下の修業です。また半周して出発点に戻る。元の木阿弥。ただ、楽になっている。何一つ得るものはない。けれども、平安である。安楽である。
故に如来云く、我、阿耨菩提に於いて実に所得なし。
お釈迦さまは、自分の悟りには一つも得るものはなかったと。自分は悟ったけれども、何一つ得るものはなかったと。皆さんもすでに、すべて持っている。そのままでいいんです。不安を抱えている。そのまま不安を抱えていてください。病気を持っている。そのまま病気を持っていてください。年取っていろんなことがわかんなくなってきた。忘れっぽくなった。そのままで、悟りのど真ん中です。お釈迦さまも死ぬときは、豚肉に当たって、ひどい下痢をして死んで行かれた。苦しいに決まってます。そして、糞まみれになって、死んで行かれた。我われと全く変わりありません。
われわれが、ああこれで死んじゃうのか、苦しいな―痛いなー、と死んでいく姿。お釈迦さんと全く変わりがありません。ただお釈迦さまには、分別心がない。だからそれをそのまま苦しんで、死んでいった。これが平安です。安楽です。そうすると、直下すなわち是。この苦しみが、そのまま平安である。我、阿耨菩提に於いて実に所得なし。何にも得るところがなかった。
若し所得あらば、燃燈仏は即ち我に授記を与えじと。
若し何か自分が、ああこれを得た、ああ悟りました、などと言うことがあれば、燃燈仏、お釈迦様のずーっと昔の師匠です。その方は、将来お前はゴータマという名前で生まれて、仏になるであろう、という予言を与えた。授記というのは、仏となる予言、将来仏となる確約というようなことです。もし何か得るようなものがあったらば、燃燈仏は、自分は将来仏になるというような予言はしなかったであろうと。
坐禅をする時、無心になろうとか、無念無想になろうとか、無我の境地に至ろうとか、何かを求めないでください。道元禅師は、自己を運びて万法を修証するを迷いと為す、と言われた。自分で一生懸命修行して、自分が自分の思いで、こうなりたいああなりたいという修業は迷いである。万法進みて自己を修証するは悟りなり。逆にこの世界がやってきて自分を修行する、これが悟りであると。
分かりづらいかもしれませんが、例えば坐禅を組んでいて、自分の呼吸がわからない。どんな呼吸をしたらいいのか、なるべく深く長い呼吸をしようと。一生懸命呼吸をしようとしている。呼吸を自分でコントロールしようとしている。自己を運びて万法を修証する様子です。万法進みて自己を修証する。坐禅の時の呼吸は、呼吸に教わっください。こう見えている、この事実。聞こえている、この事実。ここに、万法に学んでください。