無門関四十七則 兜率三関(とそつさんかん)

語録提唱

無門関四十七則 兜率三関(とそつさんかん)

2016-03-31

四十七則 兜率三関(とそつさんかん)
兜率(とそつ)悦(えつ)和尚、三関(さんかん)を設(もう)けて学者に問う、撥草(はっそう)参玄(さんげん)は只だ見性を図る。即今(そっこん)上人の,甚(いず)れの処にか在る。自性を識得すれば方(まさ)に生死を脱す。眼光落つる時作麼生(そもさん)か脱せん。生死を脱得すれば便ち去処(きょしょ)を知る、四大分離して甚れの処に向かってか去る。
無門曰く、若(も)し能(よ)く此の三転語を下し得ば、便ち以って隨処に主と作(な)り,縁に遇うて宗に即すべし。其れ或いは未だ然らずんば、麁食(そさん)は飽き易く、細嚼(さいしゃく)は飢え難し。
頌に曰く
一念普(あまね)く観ず無量劫(むりょうごう),無量劫の事即ち如今(にょこん)。
如今箇の一念を覰破(しょは)すれば,如今覰(み)る底の人を覰破す。

まずは簡単に筋をお話しいたします。兜率従悦和尚は三つの設問を設けて修行僧を説得した。修業はただ見性するために行う。さて今ここで皆の自性、本性は何処にあるか。これが第一問。次が、もし自性が判れば生死から解脱することができる。いまわの際にどのように生死を脱するか。そして最後に、生死から解脱することが出来れば、死後どこに行くかが判る。この心身がばらばらになった時、どこに行ってしまうのであろうか。これが兜率の三関です。
そこを無門が評してこの三つの設問に対して答えることが出来たならば、何処にいても主体を保つことが出来る。何に逢っても真理を離れることがない。しかしこの設問がはっきりしないようであれば、よくよく噛み砕いてみなさい。
一瞬が永遠である。永遠はこの一瞬にある。もしこの一念を見破ることができれば、今見ているそれを見破ることが出来る。

この兜率三関も難透難解の一つです。専門の修行僧も十年以上修業したところで見る則です。
撥草参玄は只だ見性を図る。即今上人の性,甚れの処にか在る。ただ見性を図る。私たち禅僧が行脚するのはこの見性のためです。皆さんが坐禅を組みのも同じです。まずは見性、自分の本性自性に気づく。さて今皆さんの本性は何処にありますか。これが第一問。自性を仏心と言ったり仏性と言ったり真如と言ったり、言葉はいろいろありますが、それを坐禅で自ら体験していただく。この自性とは生まれ持った心です。皆さんがオギャーと生まれてきた時の心。生まれたての赤ん坊には自分も無ければ世界もない。ただオギャー、オギャー。それが生まれ持った心。自分は男だとか女だとか、この家は金持ちか貧乏か、自分は頭がいいとか悪いとか、自分は善人だとか悪人だとか、そういった相対性からまったく離れています。お釈迦様の誕生の時の言葉、天上天下唯我独尊。お釈迦様ももちろんオギャー、オギャーと泣いた。それを翻訳したのが天上天下唯我独尊。この赤子の是非善悪、生死有無を離れた心、ここが唯我独尊の境涯です。私たちもそう生まれてきました。
いまさら坐禅を組んで何かを得るわけではない。坐禅は逆に自分から色々なことを取り去る行為です。ちょうど玉ねぎの皮をむくようについに何も無くなってしまう。そこが私たちの自性です。自性は無性です。さてその自性はどこにあるか。これは追えば追うほど逃げます。砂漠の逃げ水のようなものです。求心休む処即ち無事、という禅語があります。求める心が無くなった処、そこが真理である。どうしても何かを求めてしまう。それをやめる。求めることをやめるとは、そのものに在りつぶれるということです。求めるほど遠ざかるのが自性です。
即今上人の性,甚れの処にか在る。これは探しても見つかりません。しかしこの自性は皆さんのことです。すでにその自性を生きている。判らないけれどもそうある。自性は認識の対象にはなりませんがすでにいきいきと用らいています。判らないものが判らないまま用らいている。さてそれは何だ。
自性を識得すれば方に生死を脱す。眼光落つる時作麼生か脱せん。もし自性が判れば生死を脱することができる。死に行く時どのように生死を離れるか。
般若心経に不生不滅とあります。この心経は初めに観音様がこの心身は空であると気づくところから始まります。度一切苦厄、そうするとすべての苦しみから解放される。この体と心が空だと気づけば苦しみから解放される。その中で空であるから不生不滅であると説かれています。生まれることも死ぬこともない。この自性に気づけば不生不滅である。私たちはこの天地の波立ちです。天地がうねって私たちをやっています。私たちの見聞覚知は天地のうねりが己にうねっている様子です。ですからこれは自分を離れた様子です。ですから己の用らきを己の尺度で測ってはいけない。その有り様の中で、どう生死を脱するか。
ちょうど去年の今頃私は入院していました。しばらく病名も判らず、ただただ苦しくてどうにもなりませんでした。四十度以上の熱がずっと続いて、二百近い血圧で頭が割れるように痛い。口の中の潰瘍で水も飲めない。今自分がいる世界が現実なのか幻覚なのかも判らない。ああもういけないなと思いました。そんな状態でどう生死を離れるか。
生死を脱得すれば便ち去処を知る、四大分離して甚れの処に向かってか去る。そこで生死を離れることが出来れば、地水火風がばらばらになる、つまり死んだ後に行くところが判る。さて私たちは何処へ行くのか。皆さんは天地の波立ちですからただ天地に帰るだけ。理屈ではそうです。それを実地で体験していただきたい。
ある人は人間死んだらそれきりだ、何も残りはしないと言う。ある人は人間には魂がある、これが輪廻転生すると言う。何も無くなるというのを断見といいます。仏教はこれを否定します。いやいや魂は有るんだという見方を常見といいます。仏教はこれも否定します。無いも否定します。有るも否定します。人は有るでなければ無い、無いでなければ有ると考えてしまう。これは分別です。この相対的見方をする眼鏡を外して直に見る。二つ眼を潰して縦の眼で見る。そうして有無の二辺を離れる。さて四大分離して甚れの処に向かってか去る。有るじゃあない、無いでもない。さてどこへ行くか。これが兜率の三関です。
無門曰く、若し能く此の三転語を下し得ば、便ち以って隨処に主と作り,縁に遇うて宗に即すべし。この三つの関門がはっきり判れば、何処へ行っても主体の用らきができる。周りに振り回されることなく、常に主人公の用らき。対象に使われることがない用らき。囚われることのない用らき。何処にいても何に対しても主人公がいきいきと用らくことができる。其れ或いは未だ然らずんば、麁食は飽き易く、細嚼は飢え難し。よく噛まずに丸呑みするとすぐに腹が減る。よく噛めば腹持ちがする。この三関を理屈で丸呑みしないで直に体験してください。
頌に曰く、一念普く観ず無量劫,無量劫の事即ち如今。これは華厳経の一説です。今の事態が永遠です。永遠というのは今である。一瞬の中に永遠があります。永遠は一瞬におさまってしまう。如今箇の一念を覰破すれば,如今覰る底の人を覰破す。この一念を見破れば、今見たり聞いたりしているそれ、しかし振り返ったらもう今じゃあない。即今のそれ、それを見破れば、見ているものが判る。さて今何が見ていますか。皆さんじゃあない。いわば皆さんを通してみているそいつ。皆さんを使っているそいつ。皆さんをうねらせているそれ。皆さんを波立たせているそれ。それが見聞覚知している。
もしこの一念を見破れば、その見ているやつを見破ることが出来る。何が見ているかが判る。見る者は誰だ、聞く者は誰だ。誰だと振り返ったらぶち壊しです。皆さんの自性は絶対主体ですから、振り返っても見えない。だから成り切る。見ることに成り切る、聞くことに成り切る。行住坐臥そのものに成り切る。そうして如今覰る底の人を覰破す。どうぞ工夫専一にお願いします。