無門関四十八則 乾峰一路(けんぽういちろ)

語録提唱

無門関四十八則 乾峰一路(けんぽういちろ)

2016-03-31

四十八則 乾峰一路(けんぽういちろ)
乾峰(けんぽう)和尚因みに僧問う、十方(じっぽう)薄伽梵(ぼぎゃぼん)、一路涅槃門(ねはんもん)。未審(いぶか)し路頭甚麼(いずれ)の処にか在る。峰,拄杖を拈起して劃(かく)一劃(いっかく)して云く、者裏(じゃり)に在り。後に僧,雲門に請益(しんえき)す。門,扇子を拈起して云く、扇子勃跳(ぼつちょう)して三十三天に上って、帝釈の鼻孔に築著(ちくじゃく)す。東海の鯉魚(りぎょ)、打つこと一棒すれば,雨盆を傾くるに似たり。
無門曰く、一人は深深たる海底に向かって行き簸土(ひど)揚塵(ようじん)し、一人は高高たる山頂に立って白浪滔天(はくろうとうてん)す。把定(はじょう)放行(ほうぎょう)、各(おのお)の一隻手(せきしゅ)を出して宗乗を扶竪(ふじゅ)す。大いに両箇の馳子(ちす)相(あい)撞著(どうじゃく)するに似たり。世上応に直底(じきてい)の人無かるべし。正眼に観来(みき)たれば,二大老惣(そう)に未だ路頭を識らざること在り。
頌に曰く,
未だ歩を挙せざる時先(ま)ず已に到る。未だ舌を動ぜざる時先ず説き了る。
直饒(たと)い著著(じゃくじゃく)機先に在るも,更に須らく向上の竅(きょう)有ることを知るべし。

まずは簡単に筋をお話しいたします。乾峰和尚に修行僧が質問した。十方の諸仏はこの一路、一つの路を通って涅槃を証した。さてその路の入り口はどこに在りますか。乾峰和尚は杖を拈じて円を描いて曰く、ここに在る。後にその僧は雲門にも同じ質問をした。雲門は扇子を拈じて、この扇子が三十三天まで飛び上がって、帝釈天の鼻の穴にくっついた。東海の魚を一棒に叩けば、大雨が降る。
そこを無門が評して、一人は深海で土埃を起こし、一人は高山に立って白波を立てる。捉えるも放すも、それぞれ片手を出して真理を説いている。それは二人の子供が、かけっこをしてぶつかるようなものである。見回せばこの世間に本物がどれだけいるか。正しい眼で見ればこの乾峰も雲門もまだ路の在りかを知らない。
そこを漢詩に詠って、一歩も歩かずに目的地に至る。一言も語らずに語り終えた。一著一著機先を制していても、さらにその先に路在ることを知らなくてはならない。

乾峰和尚因みに僧問う、十方薄伽梵、一路涅槃門。未審し路頭甚麼の処にか在る。これは楞厳経の言葉です。すべての仏はこの一路を通って悟りを開いた。さてその悟りへの路の入り口はどこに在りますか。峰,拄杖を拈起して劃一劃して云く、者裏に在り。この柱杖というのは行脚に使う二メートル程の杖です。この杖で草を払い、虫や蛇を追い、河があればその深さを測り、疲れれば寄りかかり歩く。その柱杖を拈じて大地に円相を描いてトンと打ち、ここにある。悟りへの路はここにある。
十方薄伽梵、この天地は仏の顕現です。皆さんも仏の現成です。その中に路がある。大道無門、千差路在り。人生の大切な問題には答えがない、門すらない。そう言いながらそこらじゅう路だらけである。千差路在り。どこからでも入れる。富士山に登るのに静岡から登ろうが、山梨から登ろうが頂上は同じです。どこから入ってもいい。そこで者裏に在り。ここに在ると。このここというのは、皆さんが禅定に入って三昧に成る。その境涯が者裏です。
後に僧,雲門に請益す。門,扇子を拈起して云く、扇子勃跳して三十三天に上って、帝釈の鼻孔に築著す。東海の鯉魚、打つこと一棒すれば,雨盆を傾くるに似たり。そう乾峰和尚に親切に説かれたがこの修行僧は理解できず、次に雲門を訪ねて同じ質問をした。雲門は扇子が三十三天まで飛び上がって、帝釈天の鼻の穴にくっついた。東海の魚を一棒に叩けば、大雨が降ると答えた。いったい何のことでしょうか。そこを無門はこう評しています。
一人は深深たる海底に向かって行き簸土揚塵し、これは乾峰和尚のことです。乾峰和尚は深い禅定の中に土を揚げる。もう何も見えない。深い三昧。そこで者裏に在り。深い三昧。一人は高高たる山頂に立って白浪滔天す。これは雲門和尚です。山頂の波、これは大機大用、大きな用らきです。私たちの修業は深深たる海底に向かって行く。ここから始まります。深い三昧を発得する。主客未分、自他不二の境涯。そこでは生死も有無も迷悟も分かれていません。深深たる海底、大三昧の境涯。まずはここを目指して修業します。ここが把定放行の把定の境地です。ぐっと捉えた処です。対して放行は自在な用らき。帝釈の鼻孔に築著し、東海の鯉魚、打つこと一棒すれば,雨盆を傾くるに似たり。自在な用らき、無作の妙用。三昧と大用、これが把定と放行です。乾峰和尚は把定から説き、雲門和尚は放行から説いてくださった。そこを各の一隻手を出して宗乗を扶竪す。一人は三昧の手を差し出し、一人は用らきの手を差し出してくれた。
ただこの両手を別々に見ない。馳子相撞著するに似たり。把定と放行、三昧と大用。これが子供がぶつかる様に一つになる。三昧、無字が用らきながら何もない。無いものが用らく。
世上応に直底の人無かるべし。正眼に観来たれば,二大老惣に未だ路頭を識らざること在り。さてこの世間を見渡してみれば、どれだけ本物がいるであろうか。正限で見れば乾峰和尚も雲門和尚も路の入り口を判っていないと。これはいつもの卓上抑下です。ありがたい、素晴らしい見識であると。
頌に曰く,未だ歩を挙せざる時先ず已に到る。一歩も歩かずに目的地に至る。これは私たちの今の様子です。すでに悟っている、救われている私たちのこの様子。臨済の途中に在って家舎を離れず。すでにここは悟りの家であると。しかしこれは本分底の話で、実際は修業専一にしていただかなくてはいけません。
未だ舌を動ぜざる時先ず説き了る。一言も語らずにすでに語り終えている。これも同じことです。私たちが生まれる以前からスズメはチュンチュン、カラスはカーカー。すでに完成した世界に私たちは生まれ出てきました。衆生本来仏なり。
直饒い著著機先に在るも,更に須らく向上の竅有ることを知るべし。この一著一著、日常の一つ一つのことに機先を制する。足元の一歩一歩、今ここ今ここに収まる。者裏に在り、の者裏の処です。目前の今ここに自己の根源を見る。見性する。しかし更に須らく向上の竅有ることを知るべし。ただその先に向上の所がある。見性しても、更に参ぜよ三十年といいます。生きている限りの修業です。