無門関四十五則 他是阿誰(たはこれあたそ)

語録提唱

無門関四十五則 他是阿誰(たはこれあたそ)

2016-03-31

四十五則 他是阿誰(たはこれあたそ)
東山(とうざん)演(えん)師祖(しそ)曰く,釈迦弥勒は猶(な)お是れ他(た)の奴(やっこ)。且(しばら)く道(い)え,他は是れ阿誰(あた)そ。
無門曰く,若(も)し也た他を見得して分曉(ぶんぎょう)ならば,譬(たと)えば十字街頭に親爺(しんや)に撞見(どうけん)するが如くに相似たり。更に別人に問うて是と不是とを道(い)うことを須いず。
 頌に曰く,
他の弓挽(ひ)くこと莫(なか)れ,他の馬騎(の)ること莫れ。
他の非弁ずること莫れ,他の事知ること莫れ。

五祖法演禅師が修行達僧に説法した。釈迦も弥勒も他の僕(しもべ)である。答えて見なさい、他とは何者であるか。
無門が評して、もしこの他をはっきりと見破ることができたならば、街角で父親に会うようなもので、その是非を他人に確かめるまでもない。
そこを漢詩に詠って、他人の弓を挽くな。他人の馬に騎るな。他人の是非を弁ずるな。他人の事績をを知るな。
釈尊も、五十六億七千万年後の未来に現れるといわれる弥勒仏も他の僕であると。さて他とは何者だ。阿誰そとは誰だということです。この他というものが本則のテーマです。
これは勿論自他の他ではありません。自分、他人と分かれたところの他ではありません。主人公とか、仏心仏性とか、真如、実相とかいうものを他という言葉で表しています。この他にお目にかかるのが禅の目的です。釈迦や弥勒、これを僕として使う。ただこの釈迦も弥勒も他人のことではありません。私たちのことです。私たちを使っている、私たちを人形のように使っているある者がいる。これはいったい誰だ。ああ仏心のことだ、仏性のことだ。言葉にしても理屈は通るが納得はできない。絵に描いた餅で腹の足しにはならない。
傀儡師(かいらいし)、首に掛けたる人形箱、仏出そうと鬼を出そうと、という狂歌があります。傀儡師、人形遣いです。傀儡師が首から下げた人形箱から神仏や鬼を出して仏教の説話を説く。仏が出る鬼がでる、善が出る悪が出る。しかし、その仏や鬼を動かしているのは傀儡師、人形遣いです。そして、これはこの世界の有様です。様々なことがこの世界で起こっている。素晴らしいことも非道なことも。仏が出、鬼が出る。しかし、その仏も鬼も人形遣いが動かしている。釈迦や弥勒を動かしている人形遣い、つまり私たちを働かせている人形遣い、これは何だ。これが他です。
この無門関の欄外に、この五祖法演禅師に覚老という雲水が相見して、この他はこれ阿誰その公案を与えられて、胡張三(こちょうさん)、黒李四(こくりし)と答えている。これはまあ、太郎、次郎というようなありふれた名前を二つ並べているだけです。釈迦弥勒は猶お是れ他の奴。他は是れ阿誰そ。太郎、次郎。五祖法演禅師は是、それで良いとその見解を認めました。その話を五祖法演禅師から聞いた弟子の圓悟禅師が、いやそれは少し怪しいです、明日もう一度調べたらどうでしょうかと進言した。翌日もう一度覚禅士を呼んでこの公案を与えた。すると、それは昨日和尚にお答えした通りです、と答えた。五祖法演禅師は不是、違うと。覚老が老師は昨日は良しと仰ったではないですか、なぜ今日はいけないのですか、と訊ねた。それに対して五祖法演禅師は昨日は是、今日は不是。昨日は良い、今日は違う。その言葉を聞いて、この覚禅士、がらりと悟りを開いた。これは後の無門の評につながるところです。昨日は是、今日は不是。是と不是。
無門曰く,若し也た他を見得して分曉ならば,譬えば十字街頭に親爺に撞見するが如くに相似たり。更に別人に問うて是と不是とを道うことを須いず。この他というものにお目にかかることができれば、交差点で父親に出くわして、おお親父。それを他人にあれは私の親父でしょうか、別人でしょうか、そんな馬鹿な質問はない。是と不是を問う。素直に読めば、自分ではっきり判っているだろうということですが、一つ深めると、先の五祖と覚老の問答、昨日は是、今日は不是につながります。
この他。山梨の塩山に向嶽寺という寺があります。そこの開山、抜遂(ばつすい)得勝(とくしょう)禅師に塩山かな法語という語録があります。この本はもう徹底して、見る者は誰そ、聞く者は誰そ。見る者は誰だ、聞く者は誰だ。抜遂得勝はこれ一つで行っています。皆さんはいつも何かを見ています。そして何か音を聞いています。それは何が見て、何が聞いているのか。それは俺だと。そうじゃあない、その俺を使っている他です。私を使っている人形遣い。これを問うている。
これを外に求めては埒があきません。と言って自分を振り返っても駄目。真っ向、これは誰だ。誰だ、誰だ、誰だ。この問いを問い続ける。これを疑団(ぎだん)といいます。疑いの塊。何だ、何だ、何だ。誰だ、誰だ、誰だ。問い続ける。大疑団。ここを鈴木大拙は宇宙大の?(クエッション)と呼んでいます。それは判りません。言葉で答えは出ません。判らないまま問い続ける。その問いの中に答えがある。問いそのものが答えになるまで問い続ける。問いつぶれて?三昧になる。他は是れ阿誰そ。
私が修業した鎌倉の建長寺の開山様、大覚禅師に法語規則という文章が残っています。毎日一箇の屍骸(しがい)を施(ひ)いて上々(しょうしょう)下々(けけ)喜笑(きしょう)怒罵(とめ)更に是れ誰(た)そ。毎日この死体のような体を引きずって、笑ったり怒ったり、あれこれしているのは誰だ。私たちというこの死体、肉体を使っている、心を使っている、それはいったい誰だ。たくさんの修行僧の中でここに眼を付けて返照する者は少ないと。大疑のもとに大悟あり。疑問に徹する。誰だ、誰だ、誰だ。他は是れ阿誰そ。
この他は探し回っても見つかりません。探しているそれが他だからです。他は絶対の主体です。対象にはなりません。それにどうやって気づくか。ここが工夫のしどころです。十字街頭に親爺に撞見するが如く、ある時、ああ親父と。ああこれが自分の主人公か。いきなり十字街頭で出会います。それを是とか不是とか他人に問う奴はいない。是と不是。有る無しと同じです。生死、善悪、迷悟という分別の世界。この他は分別では届きません。しかしこの有無の分別を離れるのはなかなか難しい。
鎌倉に養老猛司さんという方がいます。よく建長寺に出入りなさっている。養老さんは解剖学の方です。その養老さんがこの口というものは有ると思いますか、と言っていました。当然有るように思いますが、解剖学上は口というものは無いんだそうです。唇は有る、舌は有る、歯は有る、喉は有る、しかし口というものは無いそうです。しかし口はここにこう有る。有ると無い。有るようで無い、無いようで有る。有無の二辺はなかなか離れられない。有ると無い、是と不是と。
 頌に曰く,他の弓挽くこと莫れ,他の馬騎ること莫れ。他の非弁ずること莫れ,他の事知ること莫れ。この頌の他は自他に分かれた他です。分別した他です。他人の弓を挽いても役に立たない。他人の馬に騎ってもしょうがない。他人の是非を論じても仕方ない。他人の体験を聞いても足しにならない。禅に関する色々な本が出ています。しかし著者自ら体験している人の本に出合うことは実に稀です。本を読むのは結構です。しかし言葉から真実には至れません。禅僧は体験をあえて言葉にする。
 仮に本物に出合ってもそれは他人の弓です。他人の馬です。そして、そこに書かれていることは他人の是非であり、体験です。それをいくら学んでもこの他に気づくことはできない。ここはひとつ、他は是れ阿誰そ、他は是れ阿誰と真っ向拈提してください。