十牛図 第四
2019-05-9
第四 得牛
この十牛図、悟りを牛に譬えて、それを十枚の絵で説いています。
序
久しく郊外に埋もれて、今日(きょう)渠(かれ)に逢う。境勝(すぐ)れたるに由って以って追い難く、芳叢を恋いて已まず。頑心尚お勇み、野生猶存す。純和(じゅんな)を得んと欲せば、必ず鞭撻を加えよ。
頌
精神を竭尽(けつじん)して渠(かれ)を獲得す
心強く力壮(さか)んにして卒(にわか)に除き難し
有る時は纔(わず)かに高原の上(ほとり)に到り
又煙(えん)雲(うん)深き処に入って居す久しく郊外に埋もれて、今日(きょう)渠(かれ)に逢う。
久しく隠れていた牛に今日出会えた。
前回の見牛のところで、ついに見性しました。しかし、もう牛は向こう側へ、一体の境地で体得したものが、向こうへ、外へ行こうとしている。
境勝れたるに由って以って追い難く、芳叢を恋いて已まず。
しかし牛は草だらけの原野に帰ろうとして追いかけるのも大変だ。
これからが本当の後悟の修行の始まりです。後悟の修行とは、悟った後の修行です。ちらっと見た牛を捕まえて、己のものとする。見るところ、聞くところ全て修行の場です。道場です。
頑心尚お勇み、野生猶存す。
逃げ出そうという心は勇んでいるし、野生はまだまだ残っている。
色や音を向こうに置かない。見えるもの、聞こえる音はみな自分です。先ほどの坐禅中に下で電話が鳴った。あれを向こうに聞かない。あれは自分が鳴っている。車の音、自分のうなりです。しかし、すぐにそれは離れてしまう。分別心が顔を出すからです。分別心が二つ心に分けようとする。これを元の一心に還すのが禅です。
純和を得んと欲せば、必ず鞭撻を加えよ。
おとなしくさせようと思えば、思い切り鞭を与えよ。
ここでもう一度踏ん張る。天地と我と一体のままでいく。日常に戻っても、無分別の分別でいく。
頌
精神を竭尽して渠を獲得す
精神を尽くして牛を捕まえたが、
何とか見性はしたが、本当に自分のものになっていない。
心強く力壮んにして卒に除き難し
野生の心は強く、すぐには飼いならせない。
分別心がどうしても顔を出す。主客を分けようとする。ここが気張りどころです。
有る時は纔かに高原の上に到り
突然、高い原野に駆け上ったかと思えば、
是非善悪、自他生死。牛を見た時は、見性した時は、確かに一体であった。一体の境地でなければ、牛は見えない。自他も無ければ、生死も無かったはずです。それが分別心により是非善悪、自他生死の相対が顔を出す。
又煙雲深き処に入って居す
隠れていた雲の中に逃げ込もうとする。
分別の迷いの雲が、またもくもくと湧き出してくる。これを抑えて始めて悟後の修行です。これを正念相続といいます。
どうやって分別を抑えるか。この一番の執着を離れるか。何が欲しいのとか、誰が憎いかとかはたいした煩悩ではありません。見方、考え方、解釈、見解。これが一番の煩悩。すべての見解は誤解です。どういう見方も考え方もしない。難しいところですが、これが正念相続です。
追わず払わず。追わない、払わない。これを初心者の心構えとして説明していますが、これは初心者ばかりのあり方ではない。追わず払わずが正念相続につながります。