十牛図 第五

語録提唱

十牛図 第五

2019-07-30

第五 牧牛
 

前思纔(わず)かに起これば、後念相随う。覚(さとり)に由るが故に以って真となり、
迷(まよい)に在るが故に妄となる。境に由って有なるにあらず、唯心より生ず。
鼻索(びさく)牢(つよ)く牽いて、擬議を容(い)れざれ。

鞭(べん)策(さく)時時(じじ)身を離れず
恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃(あい)塵(じん)に入らんことを
相い将(ひき)いて牧得すれば純和せり
羈鎖(きさ)拘(こう)すること無きも自ら人を逐(お)う
 
 
前思纔かに起これば、後念相随う。
一念起これば、次々と後を追うように念が湧く。
人間の年はまことに始末に終えない。念が後を引くのは、出た念を追うからです、払うからです。これは、どちらも出た念に囚われている。本来出た念に雑念と言うものはありません。囚われるから、心の手で掴むから邪魔になるだけです。その心の手を放す。あるいは最初から、追わず払わず、念を清流のように流しておき、手を出さない。これが正念相続です。初心者の心構えが、悟後の修行にもつながります。
 
覚に由るが故に以って真となり、迷に在るが故に妄となる。
悟れば真実になり、迷えば妄想になる。
たとえばこのプリント、悟れば有るでもなければ無いでもない。しかし、迷えば、分別すれば有るように見える。
 
境に由って有なるにあらず、唯だ心より生ず。
対象により存在世界が現象するわけではない、分別心が起こるから世界が有る。
見性した時は、牛を見つけた時には自他一体であった。それがこう分裂してしまうのは、こちらに問題が有る。見方、考え方、見解、解釈、判断、分別。それらにより一心が分節して現象世界に展開する。
 
鼻索牢く牽いて、擬議を容れざれ。
鼻面を強く押さえつけて、考えで判断するな。分けてはいけない。
ここが悟後の修行の急所です。また修行の急所でもあります。
悟っても、まだ悟っていなくても、この世界にいるわけです。この世界。此処を、これを考えで判断しない、解釈しない、分別しない。手を出さない。いじらない。そのままにしておく。
 

鞭策時時身を離れず
常に鞭を持ち手綱を握っている。
いつも正念を相続している。正念相続。30年くらい前、平林寺で接心に参加しました。当時老師は70代でしょうか。その70代の老師が、提唱で正念相続とは、常に無字にいることであると仰っていた。歩いてもムーッ、箒を使っていてもムーッ、飯を食ってもムーッと。70を越えても無字ひとつです。修行を始めて五十年、未だにひたすらムーッとなさっていらした。無字は甘くはありません。
 
恐らくは伊が歩を縦にして埃塵に入らんことを
牛はすぐに迷いの世界に入ってしまう。
念を握った手を放す、今の事態に融け入る、1日中無字を手放さない。みな同じところを狙って、牛に鞭を入れています。
 
相い将いて牧得すれば純和せり
牛はよく飼いならせば、おとなしくなる。
ここが修行で一番苦しいところです。ここで牛を逃がさない。

羈鎖拘すること無きも自ら人を逐う
そのうちに鞭や手綱を使わなくとも、牛は自分からついて来るようになる。
ここまで来れば、悟後の修行も少し楽になります。しかし油断は禁物です。一生、死ぬまで修行です。