伝心法要 第四十九
2018-09-3
豈に見ずや、阿難迦葉に問うて云く、世尊金襴を伝うる外、別に何の法を伝うや。迦葉、阿難と召(よ)ぶ。阿難応諾す。迦葉云く、門前の刹(せっ)竿(かん)を倒(とう)却(きゃく)し著せと。此れ便ち是れ祖師の標(ひょう)旁(ぼう)(片偏)なり。甚生(いかん)ぞ阿難三十年侍者と為るも、祇、多聞智慧の為に仏の呵を被(こう)むるや。云く、汝千日慧を学せんは、一日道を学せんに如かず。若し道を学せずんば、滴水も消し難からん。
豈に見ずや、阿難迦葉に問うて云く、世尊金襴を伝うる外、別に何の法を伝うや。
君は阿難と迦葉の問答を知らないか。釈尊の死までずっと側近く仕えていた阿難は、遂に釈尊在世中には悟れなかった。一番釈尊の説法を聞いていた阿難尊者がです。ここで言葉の無力さを感じるべきです。
その阿難が釈尊の法を継いだ迦葉尊者に尋ねた。釈尊は、あなたに法を伝えた証しに金襴の袈裟を与えたが、他に何か特別な説法がありましたか。
迦葉、阿難と召ぶ。
ここで迦葉が阿難と呼んだ。
阿難応諾す。
ハイ。
ここには全く隙間がない。阿難、ハイ。ここが大切なところです。ここで阿難は思いを離れた。無心になった。阿難、ハイ。
迦葉云く、門前の刹竿を倒却し著せと。
ここには二通りの解釈があります。一つは、説法のしるしの刹竿を倒してきなさい。私は説法などしない。説法のしるしの刹竿を倒してきなさい。
もう一つは、伝法の証拠の刹竿を倒してきなさい。たぶん阿難はここで悟っている。言葉や概念、分別や見解を完全に離れて、釈尊の本心にかなった。
此れ便ち是れ祖師の標旁なり。
刹竿はここでは伝法のしるしです。
甚生ぞ阿難三十年侍者と為るも、祇、多聞智慧の為に仏の呵を被むるや。
阿難尊者は、釈尊の侍者を三十年務めて、その身の回りのお世話をしながら全ての説法を聞いた。しかし見性できなかった。どれだけ法を聞いても駄目なんです。世界と自分とが一体になる。これだけの体験がたった一度でもあればいい。
三十年間法を聞くよりも、一度の体験が優っている。
云く、汝千日慧を学せんは、一日道を学せんに如かず。
千日間智慧を学ぶより、一回の体験の方が優っている。
若し道を学せずんば、滴水も消し難からん。
道を学ばなければ、学問ばかりしているならば、一滴の水も使う価値がない。
体験したならばそれで終わりです。天地と我と同根、万物と我と一体。ここに徹すれば、何も学ぶ必要がない。どんな立派な学問も、体験の裏づけがなければ無意味である。一度の体験でけりがつく。