伝心法要 第五十

語録提唱

伝心法要 第五十

2018-09-9

問う、如何ぞ階級に落ちざるを得ん。師云く、但、終日飯を喫して未だ曾て一粒の米をも咬著せず、終日行いて未だ曾て一片の地をも踏著せず。与麼の時、人我等の相無く、終日一切の事を離れずして諸の境に惑せられざるを、方に自在人と名づく。更に時時念念一切の相を見ず、前後三際を認むること莫れ。前際去ること無く、今際住すること無く、後際来ること無し。安然として端坐し任(にん)運(ぬん)にして拘わらざるを方に解脱と名づく。努力(つとめ)をや、努力をや。此の門中千人萬人、祇、三箇五箇を得たり。若し将って事と為さずんば、殃を受くること日あること在らん。故に云く、力を著けて今生に須らく了却すべし。誰か能く累劫に余殃を受けんと。
伝心法要終

問う、如何ぞ階級に落ちざるを得ん。
仏教では、少しずつ悟っていくことを漸悟と言います。いきなり気づくことを頓悟と言います。禅は頓悟の教えです。
どうしたら段階的な修行を離れられますか。頓悟できますか。これが裴休の最後の質問です。
師云く、但、終日飯を喫して未だ曾て一粒の米をも咬著せず、
朝から晩まで飯を食べていて、一粒の米もかまない。この境地。飯を食っている己を振り返らない。ただ飯を食う、成りきる。そうすると一粒の米もかんでいないという境地が分かります。
禅語に、寒蝉枯木を抱き、啼き尽して頭を回らさず、というのがあります。夏の終わりの蝉が、枯木につかまり、啼き尽して振り返る事がない。坐禅中に数を数える時は、振り返らず、一方向きに、ひたすら数える。無字をやっている人は、ムーと、己を振り返らない。啼き尽して振り返る事がない。
そうすると一粒の米もかんでいないという境地が分かります。自分を見ているようでは何時までたっても埒が明かない。
終日行いて未だ曾て一片の地をも踏著せず。
終日歩いて、一歩も歩かない。
お不動さんは、朝から晩まで動いていても、動かず、不動といいます。あの境地です。自分を振り返らずに動く。
一日歩いて一歩も歩いていない。同じ境地です。
ここが分かれば、段階的修行を離れることができる。
与麼の時、人我等の相無く、終日一切の事を離れずして諸の境に惑せられざるを、方に自在人と名づく。
成りきれば、主観も客観もない。自分もいなければ世界もない。そこにあるのは一つ、心です。有るとも無いともいえない。
皆さんは一日働き通しです。自分では休んでいるつもりでも、私が手を打てば、ころりとパンパンンパンとなってしまう。そう出来ている。これが自在人です。
更に時時念念一切の相を見ず、
一念一念、一時一時、善悪も損得も生死も見ない。成りきったところです。
前後三際を認むること莫れ。
過去、現在、未来。これを認めない。
時間というのは、頭の中にしかありません。坐禅を組んでいると止まってしまう。
前際去ること無く、今際住すること無く、後際来ること無し。
過去は去ることがない、現在は留まらない、未来は来ない。時間というものがない。
安然として端坐し任運にして拘わらざるを方に解脱と名づく。
泰然と坐り、流れに任せ、何ものにも囚われない。これが解脱である。これからそうなるのではありません。もう皆さんはそうなっています。何かを見れば見たものに成ってしまう。聞けば聞いたものに成ってしまう。これが任運です。そして解脱です。
努力をや、努力をや。
努力しなさい、努力しなさい。
此の門中千人萬人、祇、三箇五箇を得たり。
弟子は何千人もいるが、本物は五、六人しかいない。
若し将って事と為さずんば、殃を受くること日あること在らん。
ここで無心を体験しなければ、禍があるだろうと。
故に云く、力を著けて今生に須らく了却すべし。
死ぬ前に決着をつけなさい。本当のところに気づきなさい。
誰か能く累劫に余殃を受けんと。
禍を残すなよと。
伝心法要終
こう言って終わっています。
今日で伝心法要を終わります。