伝心法要 第四十七

語録提唱

伝心法要 第四十七

2018-08-15

問う、六祖経書を会せずして何ぞ衣を伝えて祖と為るを得たる。秀上座は是れ五百人の首座、教授師と為って三十二本の経論を講義得す。云何ぞ衣を伝えざる。師云く、他は有心なるが為に、是の有為法の所修所証を将て是(ぜ)と為せばなり。所以に、五祖六祖に付す。六祖当時(そのかみ)、祇是れ黙契し、密に如来甚深の意を授(つた)うることを得たり。所以に法を付して他に与う。汝道うことを見ずや、法の本法は無法なり、無法の法も亦法なり。今無法を付する時、法法何ぞ曾て法ならんと。若し此の意を会せば、方に出家児と名づけん。方に良し修行せんに。

問う、六祖経書を会せずして何ぞ衣を伝えて祖と為るを得たる。
六祖慧能は、文字を読めなかったと言われています。伝法されたときは僧侶ですらなかった。それでも五祖は六祖に伝法の印である衣を伝えた。
秀上座は是れ五百人の首座、教授師と為って三十二本の経論を講義得す。
それに対して神秀は、修行僧の頭であり、三十二の経論を講義するほどの学者であったと。裴休はまだ学問を離れられない。言語に囚われている。
云何ぞ衣を伝えざる。
どうして神秀に伝法しなかったのですか。
師云く、他は有心なるが為に、是の有為法の所修所証を将て是と為せばなり。
答えて言うには、神秀は有心だったからである。有心だったので、このかりそめの、縁起世界での修行や証得でよいと思っている。言葉の世界、学問の世界を離れていない。
あの阿難尊者ですらそうです。世尊に何十年も付き従い、誰よりもそのお言葉を聴いているが、ついに世尊の生前は見性できなかった。学問と体験はつながらない。
所以に、五祖六祖に付す。
だから五祖は、体験している慧能に法を伝えた。
六祖当時、祇是れ黙契し、密に如来甚深の意を授うることを得たり。
六祖慧能は当時寺の下働きをしていた。米搗きを一日中していた。米搗き三昧です。米を搗きながら自己を忘じ、深く如来の悟りを味わっていた。
所以に法を付して他に与う。
だから彼に法を伝えた。
汝道うことを見ずや、法の本法は無法なり、無法の法も亦法なり。
君は知らないか。本当の法とは法がないことである。無法が法なのである。
何も伝えるものがない。法がないのです。
今無法を付する時、法法何ぞ曾て法ならんと。
ない法を伝える。世尊から伝わった法の流れ、その法とは何か。
若し此の意を会せば、方に出家児と名づけん。方に良し修行せんに。
ここが分かってこそ真の出家である。
何か悟りのようなものを、外の世界に求めない。ただ成りきり、徹することです。