伝心法要 第四十五

語録提唱

伝心法要 第四十五

2018-07-6

汝は是の如くなること能はざるが為に、心を将って禅を学び、故に云く、如来の所説は皆人を化せんが為に、黄葉を将って金と為して、小児の啼くを止めるが如しと。
決定して実ならず。若し実に得ることあらば、我が宗門下の客に非らず。且つ汝が本体と甚の交渉かあらん。
故に経に云く、実に少法の得べき無きを名づけて阿褥菩提と為すと。

汝は是の如くなること能はざるが為に、心を将って禅を学び、道を学するを須要するも、仏法に什麼の交渉かある。
君は一超直入如来地と言う様にひとっ飛びに道には入れない。そういう人間ではない。
だから意識で禅を学んでいる、頭で解ろうとしている。頭で禅の道を学んでいるけれども全く見当が外れている。それが仏法にどう交渉するのか。
故に云く、如来の所説は皆人を化せんが為に、黄葉を将って金と為して、小児の啼くを止めるが如しと。
紅葉した葉を子供に見せてこれは金だよと。そして子供が泣き止む。方便です。如来の方便を君は本当だと思い込んでしまっている。
決定して実ならず。
何か有ると思って坐禅を組んでいる。本当は何も無い。何も無いのが本当です。ここのところが上手く伝わらない。
成りきったところに何か有る、仏というものが何か解らないけれども、何か有るのだろう、悟るべきものが何か有るのだろう、と思って無駄に足掻いている。何べんも何べんも成りきれ成りきるんだと言うと、分かれたものを無理にくっつけて成りきろうとする。そうではなく、自分に取って返して、自分の意識を止めれば、自然に分別されたもの、これが元の状態になる。
生と死、有ると無い、迷いと悟り。こう分かれてしまったものを無理にくっつけるのではなく、意識を止める。意識を止めればスッっと元の一体のところへ戻ります。これを成りきるといいます。本当に簡単なことなのですが、難しく考えすぎて反って遠回りしている。
思いを止める。分別を止める。解釈を止める。ただそれだけです。
若し実に得ることあらば、我が宗門下の客に非らず。
何か少しでも得るものがあったら本物ではない。何も得るものがない。
空っぽから生まれて空っぽに帰る。生きたままその空っぽを知る。空っぽとは得たことになりません。
空間の様なもので、便利だなと思っても増やす事はできません。邪魔だなと思っても除ける事はできません。心はこの虚空のようなものです。どうしようもない。得るとかどうのとかどうのとかそういう事が一切ない。ここに大きな勘違いがある。

且つ汝が本体と甚の交渉かあらん。
自分の本体とは自分を遠く超えています。しかしこの自分、皆さんの形をとらないと現れられない。皆さんを超えているけれども皆さんの形をとって現れている。これが自分の本体です。
生きる死ぬ、有る無い、損得、天地、主観と客観、こう分別して分かれてしまったもの。
これが元の1つに返る。分かれてしまったものが1つのものに返る。このひとつのところが自分の本体です。その本体と何の交渉があるんだと。そんなものは何の交渉もない。
故に経に云く、実に少法の得べき無きを名づけて阿褥菩提と為すと。
この後読む般若心経でも阿耨多羅三藐三菩提といいます。これを略して阿褥菩提、最高の悟り。何も得る事がないのが最高の悟りである。そう経に書いてあるじゃないか。生きるとか死ぬとか、有るとか無いとか、どうしてもそこで引っかかってしまう。
自分の死後に霊魂の様なものがあって輪廻転生するのか。それとも無に帰するのか。釈尊はその様な質問が嫌いでした。いつまでそんなところにいるんだと。
霊魂が、有るでなければ無い、無いでなければ有る。それは意識の働きです。それを止める。分別を止める。解釈をを止める。そうすると自分の本体とめぐり会えます。無理にくっつけようとせずに、その働きを止める。そういうことです。