伝心法要 第三十九

語録提唱

伝心法要 第三十九

2018-04-13

云く、若し照に因らずんば、何時か見ることを得ん。師云く、若し也(ま)た因に渉って常に須らく物を仮るべくんば、什麼の了る時かあらん。汝見ずや、他(かれ)汝に向かって道う、手を撒(はな)って君に似(しめ)すに一物無し、徒に謾(みだり)に数千般を説くを労すと。云く、他若し識了せば、照らすも亦物無きや。師云く、若し是れ物無くんば、更に何ぞ照らすことを用いん。汝眼を開いて弥語(みご)し去ること莫れ。

云く、若し照に因らずんば、何時か見ることを得ん。
照らさなければ何も見えないじゃありませんか、と裴休が質問している。物と自分を分けている。心をすでに分別している。
裴休はこの心や仏を外に見てしまう。私たちは、自分が外のものを見ていると思っている。自分が外の音を聞いていると思っている。下で来客の声が聞こえる。あれは外の音ではありません。あの音は皆さんの音です。今さまざまな物が見えている、聞こえている。これは皆さんが皆さんを見たり聞いたりしている。
合掌の姿、これは右手が左手を触っているのか、その逆でしょうか。そのどちらでもありません。合掌というのは、一体のところ、成りきった境地を現しています。同じように、見るものと見られるもの、聞くものと聞かれる音、これは本来一体のものです。それが分かれています。自分と世界。主観と客観。
分かれて生となり死となる。有となり無となる。本来一つ。禅とはこの一体の、本来のところへ帰る行為です。
師云く、若し也た因に渉って常に須らく物を仮るべくんば、什麼の了る時かあらん。
元の一体のところが分からなければ、きりがない。一つになれば何もない。無いということもない。
汝見ずや、他(かれ)汝に向かって道う、
こういう言葉を知らないか、
手を撒って君に似すに一物無し、 
何も無い。そこには無さえない。
徒に謾に数千般を説くを労すと。
くだらないことを何時までも説いても仕方がない。いつまでも、そんな質問をしているんじゃない。
云く、他若し識了せば、照らすも亦物無きや。
本当の悟りを開けば、一物もないということが分かるんですね。
師云く、若し是れ物無くんば、更に何ぞ照らすことを用いん。
無いんだ、何も無いんだ。無いものを照らしようがない。見ようがない。
汝眼を開いて弥語し去ること莫れ。
起きたまま寝言を言っているんじゃない。
今日は合掌の境地、一体の境地をお話しました。一つになると、無くなる。無もなくなります。