伝心法要 第三十八

語録提唱

伝心法要 第三十八

2018-04-12

問う、祇、目前の虚空の如くならば、是れ境ならざるべけんや。豈に境を指して心を見ること無からんや。師云く、什麼の心か汝をして境上に向かって見せしむ。設(たと)い汝見得すとも、祇、是れ箇の境を照らす底の心のみ。人の鏡を以って面を照らすが如し。縱(た)然(と)い眉目分別なるを見るを得とも、元来祇是れ影像のみ。何ぞ汝に関せん。

問う、祇、目前の虚空の如くならば、是れ境ならざるべけんや。
ここで問われている心とは、皆さんの心です。そしてその心が釈尊の心であり、達磨大師の心でもある。皆さんを超えているが皆さんに現れているのが心です。私の目前の空間、虚空は、実に手のつけようがないものです。増やすことも減らすこともできない。かざることもできず、汚すこともできない。
心が虚空のようなものであれば、これは対象にする事ができるのではないでしょうか。境というのは対象という意味です。こちらに能、主観があって、あちらに境、客観、対象がある。
豈に境を指して心を見ること無からんや。
心というのは対象に出来るのではありませんか。対象にしないと分からない。だからしつこいほど問うている。
師云く、什麼の心か汝をして境上に向かって見せしむどの心が、君に対象化して見えているんだ。心と言うのは、どこにもない。成りきったところが心です。
設い汝見得すとも、祇、是れ箇の境を照らす底の心のみ。
見えたり聞こえたりするもの、これは対象ではありません。それでは分別です。主客が分かれている。見えたり聞こえたりするものは、自分です。
何か見たり聞いたりしても、それは自分の心を見ているんだ。見ている心を見ているだけだ。
人の鏡を以って面を照らすが如し。
鏡で自分の顔を見ているようなものだ。
縱(た)然(と)い眉目分別なるを見るを得とも、元来祇是れ影像のみ。
はっきり顔が見えても、それは鏡に映った影である。問題はこっち側にある。これは何か。向こうの鏡ではない。そのものは何か。それはどうしても見る事は出来ない。だから成る、見ずに成る。これが三昧です。
何ぞ汝に関せん。
鏡に映ったものが、君に何の関係があろうか。そのものに成る。成り切る。