伝心法要 第十六

語録提唱

伝心法要 第十六

2017-02-20

貪瞋癡あるが為に即ち戒定慧を立つ。本煩悩無くんば、焉んぞ菩提あらん。故に祖師云く、仏の一切の法を説くは、一切の心を除かんが為なり。我に一切の心無くんば、何ぞ一切の法を用いんと。本源清浄仏の上には更に一物を著けず。譬えば虚空の無量の珍宝を以って荘厳すと雖も、終に住むること能わざるが如し。仏性は虚空に同じ、無量の功徳智慧を以って荘厳すと雖も、終に住むること能わず。但、本性に迷うて転た見ざるのみ。謂わゆる心地の法門は萬法皆此の心に依って建立す。境に遇えば即ち有、境無ければ即ち無なり。浄性の上に於いては転じて境の解を作すべからず。言う所の定慧鑑用歴歴、寂寂惺惺たる見聞覚知は、皆是れ境上に解を作す。暫く中下根の人の為に説くことは即ち得ん。若し親証を欲せば皆此の如き見解を作すべからず、尽く是れ境なり。法に歿処あらば有地に歿す。但、一切法に於いて有無の見を作さざる、即ち法を見るなり。

貪瞋痴あるが為に即ち戒定慧を立つ。本煩悩無くんば焉んぞ菩提あらん。
貪瞋痴、貪り、怒り、愚かな知恵、あるいは無知、これを三毒と言います。我われにこれがあるがゆえに、即ち戒定慧を立つ。戒定慧、三学と言います。三毒のために、三学がある。戒は戒め、定は心の散乱を防ぐ禅定、そして智慧。しかしもともと貪瞋痴のような煩悩がなければ、悟りも必要ない。三毒があるから、三学がある。煩悩があるから、悟りがある。煩悩が本来無ければ、悟りなどと言うものは必要ない。
いつも申し上げるように、われわれはすでに悟りのど真ん中です。今こうしているそのままで皆さんは悟っています。どこにも煩悩などと言うようなものはありません。いや自分は、あれが欲しいこれが欲しい、あいつが嫌いだこいつが好きだと、様々な煩悩があると。その煩悩になりきれば、それが悟りです。それが菩提です。綺麗なハンドバッグがある。欲しいな。煩悩を向こうに見る。そうではなく内側からなりきって、徹底して、欲しいー。煩悩即菩提。煩悩即悟りの境涯です。
故に祖師云く、仏の一切の法を説くは、一切の心を除かんが為なり。
祖師方は、仏が様々な教えを説いているのは、この心を除かん為なりと仰っている。この伝心法要は、心というものを、様々な意味に用いているのでわかりづらい。本はどれも一緒なんです、最後に分かると思いますが、元は一緒なんですが、まずはこう、否定されるような形で心というものが用いられている場合は、その心は、意識、分別、判断、解釈、そのような人間の考え方、思いとしてとらえてください。ですからこの場合は、この心は意識。仏が様々な法を説いているのは、無心になるためである。我々を、無心に導くためであると。
我に一切の心無くんば、
黄檗希運禅師には一切の分別心などはない。
何ぞ一切の法を用いんと。
自分はすでに無心であるからすべての教えは自分には必要ない。これは黄檗禅師だけではありません。皆さんの今の様子です。皆さんは今無心です。いろいろなことを考えている、そう思われるかもしれません。でも、そのままで皆さんは無心です。ここのところに気が付いていただきたい。これから坐禅を組んで、無心の境地を得るわけではない。すでに皆さんは無心です。こう見台をたたけば、カンカン、皆さんは聞こえる。私の話が聞こえる。目の前のテキストが見えている。無心の証拠です。何の仏教を学ぶ必要があろうかと。
本源清浄仏の上には更に一物を著けず。
本源清浄仏、われわれの仏心、仏性のことです。我われの本質です。例えば、私が手をたたいた。その音を自分が聞いている。違います。これは皆さんが鳴っています。自分が、世界を見たり、聞いたり、感じたりしているわけではありません。一体です。本来一体です。それを、分別心、考え方、思いが、分けて見せている。もともと一体です。主客は元来未分です。主観が客観を見ているわけでも聞いているわけでもない。主観と客観は一つ物の裏表です。これが本源清浄仏。更に一物を著けず。仏心仏性に、付け加えるものなど何もない。付け加えることができない。
譬えば虚空の無量の珍宝を以って荘厳すと雖も、終に住むること能わざるが如し。
虚空、まあこの空間。金銀財宝で飾り付けようとしても、どうしてもとどまってくれない。ざっと落ちてしまう。不思議なもんです。虚空、空間。有るのか無いのかわからない。もう少しこの空間が欲しいなあ。増やすこともできない。邪魔だからと言って、無くすこともできない。有るでもなし、無いでもなし。不思議なものです。
仏性は虚空に同じ。
我われの本質も、この空間と同じであると。
無量の功徳智慧を以って荘厳すと雖も、終に住むること能わず。
虚空を財宝で飾ることができないように、この私たちの本性というのは、どのような功徳も、どのような知恵も徳も、そこにとどめることができない。われわれの本性には、何もとどめることができない。
但、本性に迷うて転た見ざるのみ。
自分の仏心仏性、それに迷って見失っているだけである。
謂わゆる心地の法門は、萬法皆此の心に依って建立す。
今では禅宗と言いますが昔は仏心宗などと言っていた。この教えです。今私が皆さんに説きたいと思っている教え、これが心地の法門。
法というのは教えという意味と、存在という意味があります。ここでは存在ととらえてください。萬法、すべての存在は、皆此の心に依って建立す。一切唯心造という言葉があります。全ては心が作っている。さてその心とは何であろうか。
境に遇えば即ち有、境無ければ即ち無なり。
境というのは対象です。自分の外にあるもの、すべて境です。テキストを見れば、テキストがあります。テキストから目を離して他のところを見れば、テキストはもう無です。対象があればある。対象がなければない。当たり前です。何を言おうとしているか。
浄性の上に於いては転じて境の解を作すべからず。
仏心、仏性、我われの本質。今坐禅を組んでいただきました。そこに帰れば、何を言っているか分かる。頭で考えちゃダメ。今日、初心の方に数息観を説明しました。数が数を数える、というまで数に徹する。自分が息を数えるなんて言う中途半端なものではありません。数が数を数える。無字が無字を拈提する。そのものがそのものになりきる。その成りきったところ。徹底したところ、それが浄性です。よくわからん言葉、同じようなことを仏心と言ったり、仏性と言ったり、真如と言ったり、法身と言ったり、様々に言葉を使いますが、みな自分の成りきった姿としてとらえてください。そうすればわかりやすいです。そこには、客観世界などと言うものはない。境の解を作すべからず。見る自分と、見られる対象が一つになっている。これは、パンパン、皆さんの音です。パンパン。皆さんが鳴っている。皆さんです。自分です。対象化しない。
言う所の定慧鑑用歴歴、寂寂惺惺たる見聞覚知は、皆是れ境上に解を作す。
伝心法要が説かれた当時に使われていた言葉でしょう。定慧鑑用歴歴、禅定や智慧を以って、歴然として照らし用いる。寂寂惺惺たる見聞覚知は、禅定や智慧を以って、静まり冷めた見聞覚知。静まって惺めた五感の働き。このようなことが、当時言われていたんでしょう。皆是れ境上に解を作す。これは、主観と客観を分けた相対的な見方であると。自分と世界を分けた、離れてしまった境涯での言葉であると。
暫く中下根の人の為に説くことは即ち得ん。
仏教では、上根、中根、下根と人間を分けます。中下の人には、こういった理屈でもって説明する必要があるけれども、上根の人たちには必要ない。
若し親証を欲せば皆此の如き見解を作すべからず。
もし、本当に自分と世界が元来一体である、一如である、自分はすでに悟っている、自分はすでに救われている、そういうことを知りたければ、知るためには、三昧という体験をしていただかなければならない。三昧。自分と世界が分かれていない。自分、世界、もともと一つです。二つあるのを無理に一つにするんじゃありません。考え方、思い、分別、判断、解釈、そういったものを離れれば、自然と元の一体の、一如の境地に至ります。それが坐禅です。
いろいろな考え方があります。どんな立派であっても、立派そうに見えても、すべての考え方は誤解です。誤った考え方です。考えている限り、すべて誤りです。尽く是れ境なり。考えている。悟りのことを考えている。仏教のことを考えている。お釈迦様の教え、たくさんあります。それを一生懸命考えている。考えているということは、それを向こう側に置いていることです。悟りとは何だろう。自分と悟りが分かれています。そうじゃない。もともと一つ。皆さんは悟りでできています。皆さんの心も、皆さんの体も。皆さんの思いも。皆さんの欲得も。欲しい、惜しい、憎い、かわいい。総て悟りでできています。
法に歿処あらば有地に歿す。
教えが沈む場所があるとしたら、有るということに沈んでしまう。皆さんいま自分がいると思っている。自分があると思っている。ここに様々なものがあると思っている。教えはそこに沈んでしまう。但、一切法に於いて有無の見を作さざる、即ち法を見るなり。
これは有るではありません。無いでもありません。坐禅を組んで、深い三昧に入る。何にもなくなってしまう。無いということも無くなってしまう。有無の見をなさざる、即ち法を見るなり。本当の教えをそこで見る。