伝心法要 第十五

語録提唱

伝心法要 第十五

2017-02-5

此の霊覚の性は、無始より巳来、虚空と壽を同じくし、未だ曾って生ぜず、未だ曾って滅せず、未だ曾って有ならず、未だ曾って無ならず、未だ曾って穢ならず、未だ曾って浄ならず、未だ曾って喧ならず、未だ曾って寂ならず、未だ曾って少ならず、未だ曾って老ならず。方所無く、内外無く、数量無く、形相無く、色象無く、音声無し。覓むべからず、求むべからず。智慧を以って取るべからず、境物を以って会すべからず、功用を以って到るべからず。   
諸仏菩薩と一切の蠢動含霊と同じく此れ大涅槃の性なり。性即ち是れ心、心即ち是れ仏、仏即ち是れ法なり。一念も真を離るれば皆妄想たり。心を以って更に心を求むべからず、仏を以って更に仏を求むべからず、法を以って更に法を求むべからず。故に学道の人は直下無心にして黙契するのみ。心を擬すれば即ち差う。心を以って心を伝う、此れを正見と為す。慎んで外に向かって境を逐うこと勿れ。境を認めて心と為すは是れ賊を認めて子と為すなり。

此の霊覚の性は、無始より巳来、虚空と壽を同じくし、
この心の本性は、始まりのないもので、虚空と同じ齢であると。この心の性は、いつ始まったかということも無い。
未だ曾って生ぜず、未だ曾って滅せず、
そして、生まれてもいない。もちろん滅してもいない。
未だ曾って有ならず、未だ曾って無ならず。
有でもない、無でもない。
未だ曾って穢ならず、未だ曾って浄ならず。
穢れてもおらず、清らかでもない。
未だ曾って喧ならず、未だ曾って寂ならず。
ざわついてもおらんし、静寂でもない。
未だ曾って少ならず、未だ曾って老ならず。
若くもなければ、年老いてもない。本性ですよ、心の本性。
方所なく、
どこにあるとも言えん。
内外無く、
内側でも外側でもない。
数量無く、形相無く、
計れない。形や姿もない。
色象無く、音声無し。
色も形もなければ、音もない。
坐禅を組んで、われわれはある境地に至る。三昧という境地に至る。ここではすべてが一体、一如です。何も分かれていない。今まで言ったところ。生まれる、滅する、有る、無い。穢れている、清らかである。みな、分かれている。有無、生死、やかましい、静か。若い、年寄り。中、外。分かれている。こう世の中を見回してもバラバラ。柱は縦に、敷居は横に。天井は上に、絨毯は下に。男性と女性。自分は生きていると思っている。三代前のばあさんはもう死んでいると思っている。分かれていると思っている。これを一つに戻す。元来が一つなんです。これを分別の心が、判断の心が、解釈する思いが、分けてしまう。
覓むべからず、求むべからず。
皆さんはすでに悟っています。すでに救われた後の姿です。ただそれに気が付いていないだけ。自分と世界が、一体になっている所、これが悟りであり、救いです。元来皆さんは一体です。一つです。これを分別の心が分けてしまう。世界と自分は別物だと思っている。外で車の音が聞こえる。自分が、音を、聴いている。そう思っているが、あれが自分です。皆さんが聞いているわけではない。あれが自分です。何も求める物はない。覓むべからず、求むべからず。求めるとそれは対象になってしまう。悟りが開きたい。三昧に入りたい。悟りが向こうへ行ってる。三昧が向こうへ行ってしまう。救われたい。仏が向こうへ行ってしまう。
智慧を以って取るべからず、
知識や学問でわかるものではない。
境物を以って会すべからず、
境というのはこの対象のことです。それを対象化しちゃいかんと。
功用を以って至るべからず、
今坐禅を組んでいただきましたけれど、修業をしてそういう境地に至ろうと思うなと。すでにそうなってます。分からないだけ。気が付いていないだけ。皆さんはすでに、悟りの世界の住人です。というか、皆さんは、悟りが人間の姿をとっているだけ。
諸仏菩薩と一切の蠢動含霊と同じく此れ大涅槃の性なり。
蠢動含霊というのは、われわれ生き物です。迷える生き物です。仏や菩薩とわれわれ凡夫は、同じものである。悟りの本性である。この自分は、欲しい、惜しい、憎い、かわいい。煩悩の塊です。これがこのまま悟りの本性。煩悩と悟りというのは、同じものです。これ難しい。初心の指導で、数息観で、自分が息を数えているようではだめだと、数が数を数える。自分なんてない。世界なんていうものもない。数一つ。同様に煩悩に成り切る。成り切ると煩悩がそのまま悟りに成る。此れ大涅槃の性なり。
性即ち是れ心、心即ち是れ仏、仏即ち是れ法なり。一念も真を離るれば皆妄想たり。
その本性がこの心である。このテキストは、黄檗禅師の伝心法要というテキストです。心を伝える法の要。心というのがテーマの本です。我われの本性がこの心である。心とは、すなわち仏である。仏とはすなわち法である。教えである。
一念も真を離るれば皆妄想たり。
ちょっとでも、こう成りきったところから離れれば、無字をやっている方は無字になりきる。数息観をやっておられる方は、数になりきる。随息観をやっておられる方は息になりきる。他の公案を見ている方は、それになりきる。我われは、自分が寝ている姿を見ることはできますん。見ることも感じることもできない。でも、寝ることはできる。これが成りきる。我われは自分の死んだ後の姿を見ることはできない。でも死ぬことはできる。成りきることはできる。見ずに成る。そこから離れると、妄想に落ちてしまうと。
心を以って更に心を求むべからず。
求めているものがそれです。
仏を以って更に仏を求むべからず、法を以って更に法を求むべからず。
仏を求めている皆さんが仏です。法を求めている自分が法衣です。求めているそれがそれ。
故に学道の人は、
皆さんのことです。
直下無心にして黙契するのみ。
即今、今ここで、無心になって、主客未分、自分と世界が分かれる以前のところ、合一したところ、成り切ったろころ。そこに無心にすっと今ここで入れと。そうは言われても難しいよ、と思っていられるかもしれませんけれど、すでに皆さんはそうなっている。今私の声が聞こえる。無心になっている証拠です。黙契してます。直下無心になっています。そこで、え?っと思ったらだめ。今外の車の音が聞こえている。これは皆さんが無心である証拠。え?っと思わずに、信じる。ここを信じてください。信心。自分の心を信じる。
心を擬すれば即ち差う。
成りきったところを対象化してしまったら、天地の隔たりができてしまうと。え?と思ったところで、もう壊れてしまう。
心を以って心を伝う、これを正見と為す。
心から心へ。ここからここへ。今日のところは、とても大きいです。始まりのないこの世界の、この虚空の、虚空というのは、宇宙であり目の前のこの空間です。大宇宙、とても大きい。でもすべては、今ここにあります。今ここの自分を離れては、何にもありません。今ここ、今ここ。この宇宙が発生したとき、われわれは何をしていたか。何をしていたか、という声を聴いていました。今ここ、今ここ。
慎んで外に向かって境を逐うこと勿れ。
対象化してはいけません。昔に求めてもいけない。今ここ、今ここ。
境を認めて心と為すは是れ賊を認めて子と為すなり。
分別して、真理を向こう側において、自分が真理を求めているようではいかんと。そんなことをしていると、泥棒を自分の子供と勘違いするようなものであると。
何にも難しいことはない。本当に難しいことはないです。そのまま、このまま、ただ、気が付くか、気が付いていないか。それだけです。ここに40人ぐらいいらっしゃる方の中で、何人か、もうそこに気が付いていらっしゃる。大方は気が付かない。どっちでもいい。皆さんはすでに仏です。皆さんはすでに救われています。何も求める物はありません。求むべからずと。