伝心法要 第十七

語録提唱

伝心法要 第十七

2017-04-29

九月一日、師休に謂って曰く、達磨大師中国に到ってより、唯一心を説き、唯一法を伝え、仏を以って仏を伝えて、余仏を説かず。法を以って法を伝えて、余法を説かず。法は即ち不可説の法、仏は即ち不可取の仏なり。乃ち是れ本源清浄の心なり。唯、此の一事のみ実にして、余の二は真に非ず。

般若を慧と為す、此の慧は即ち無相の本心なり。凡夫は道に趣かず、唯六情を恣にして乃ち六道に行く。学道の人一念も生死を計すれば、即ち魔道に落ち、一念も諸見を起こさば即ち外道に落つ。

生ありと見て其の滅に趣かば、即ち声聞道に落ち、生ありと見ずして唯滅ありと見れば、即ち縁覚道に落つ。法は本生ぜず、今も亦滅無く、二見を起こさず、厭わず忻(ねが)わず、一切の諸法唯是れ一心のみ。然る後乃ち仏乗たり。

 

九月一日、師休に謂って曰く。

ある年の九月一日、黄檗禅師は、私裴休に、こういう説法をしてくださった。

達磨大師中国に到ってより、唯一心を説き、唯一法を伝え。

達磨大師が中国の梁に至る以前も、様々な仏教が伝わっています。ただそれは、倶舎論であったり、唯識であったり、中観派であったりと、思惟を、考え方、思い、そういったもので仏道の本源を狙おうというものがほとんどであった。ただ、達磨大師以来、此の法はただ一心を説き。心です、このこころです。この伝心法要のテーマになっている心。これだけを説き、ただ一法を伝え、ある一つの教えのみ伝えて、

仏を以って仏を伝えて、余仏を説かず。

この二行後に、仏は不可取の仏なりとありますが、その仏。不可取の仏を以って仏を説いて、ああだこうだと、余分な仏は説かない。

法を以って法を伝えて、余法を説かず。

この場合の法は、教えということです。そしてその法は、次の行に不可説の法とあります。不可説の法を以って法を伝えて、それ以外のあれやこれやの法は説かなかったと。

法は即ち不可説の法、仏は即ち不可取の仏なり。

この教えというのは、不可説の教えである。説かない、説けない。言語にならない。思慮分別の対象にならない。それが不可説の法です。達磨大師が中国へ渡ってきた時の旗印が、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏という有名な言葉です。不立文字。文字を立てず。言葉にせず。教外別伝。そういう言葉、教えのほかに、体験として伝わってきたものがある。それは、直指人心。ああのこうのと、この理解に訴えるのではなく、直接心を指さし、見性成仏に、趣かせると。悟らせると。これを旗印に達磨さんは、インドからいらした。法は即ち不可説の法。不立文字のところです。説くべからず。直接私たちの心を達磨大師以来禅僧たちが指さしてくださった。それだ、と。仏は即ち不可取の仏なり。仏は、把握することもできない。認識することもできない。知ることもできん。達磨大師が伝えた仏というのは、認識も把握も、知ることすらできない。不可取の仏なり。じゃあ、我々はどうすればいいのか。知ることはできない、でも仏に成ることはできる。見性成仏です。不立文字、教外別伝、直視人心、見性成仏。達磨さんは直に我々の心を指さしてくださって、そして我々は仏になる。仏を知るんではないです。仏は認識の対象になりません。把握すらできない。知ることももちろんできない。だから成る。仏になる。見性成仏。

乃ち是れ本源清浄の心なり。

つまり今までさんざん言っていた、本源清浄のこの心であると。黄檗禅師が、我々に伝えたかった心であると。

唯、此の一事のみ実にして、余の二は真に非ず。

これのみが本当である。他のことは真ではない。

般若を慧と為す。

般若。まあ梵語でプラジュニャーというのは、智慧と訳します。智慧のことです。般若とは智慧である。

此の慧は即ち無相の本心なり。

この智慧は、即ち形も姿もない本心である。どうしても、手のつけようもない。形もなければ、姿もない。たとえばこの空間、もうどうしようもない。空間というもの、虚空というものは、手のつけようもない。かといって無いかと言えばないわけでもない。有ると言ってもあるわけでもない。空間というのは、有るわけでも無いわけでもない。なんとも手の付けようがない。それと智慧は同じである。これが無相の本心です。なんとも手の付けようがない。手がつけられないから、皆さんは坐禅を組んでいるんです。坐禅を組んで、三昧を法得する。数を数えている人は、数と自分が一体となる。一如になる。一つになる。一つになると無くなります。ヒトーツ、すっと三昧に入る。どうにも手が付けられないから、それになる。無字をやっとられる方は、ムーと無になる。

凡夫は道に趣かず、唯六情を恣にして乃ち六道に行く。

われわれ凡夫は本当の道に行くことなく、唯六情を恣にして、六情を恣にするというのは、六根にとらわれるということです。そして六道に行く。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天国。この六道に行く。この六道というのは死んだ後にある世界ではありません。私たちが怒れば地獄。欲しいと思えば、欲をかけば畜生。戦争すれば修羅。六道はこの世にあります。

学道の人一念も生死を計すれば、即ち魔道に落ち。

私たち修行するものが、生き死に、ちょっとでも生死に引っかかってしまえば、魔道に落ちてしまう。生死一大事因縁と言って、禅宗では生死の問題を一番大切な問題にしています。ただ、それを計する、魔道に落つ。生死の解決には、禅定、三昧、徹底、これが必要です。それを判断、分別すれば、誤った道に落ちてしまう。

一念も諸見を起こさば即ち外道に落つ。

少しでも諸見を起こさば、思慮分別で、判断解釈すれば、坐禅でこう成りきって、三昧のところでそれをわかるんではなくて、思慮分別でそれを判断解釈すれば、外道に落つ。外道と言うのは、仏教の他の教えということです。それは仏教ではない。

生ありと見て其の滅に趣かば、即ち声聞道に落ち。

生というのは生まれることであり、何かが生起することであり、発生することです。自分のこととして考えれば、自分は生まれたと、私の場合では56年前にオギャーと生まれたと見る。この滅というのは、消滅ととってもいいですし、あるいは寂滅、涅槃ととってもいいです。若し涅槃と取れば、オギャーと生まれてしまった自分を涅槃に持っていこうとすれば、それは声聞道である。

生ありと見ずして唯滅ありと見れば、即ち縁覚道に落つ。

いや、これは生まれてないんだ、そういうふうに見て、それでも修行して涅槃に趣く、悟りを開く。そういう考え方は縁覚道である。

法は本生ぜず、今も亦滅無く。

何ものも生まれていません、発生していません。今も何ものも消滅していない。有名な雪山偈、聞いたことがあると思いますが、諸行無常 是生滅法 生滅滅為 寂滅為楽。諸行は、すべてのものは無常である。一時もとどまらない。是生滅法、これは消滅の教えである。ここに生、滅と出てきています。生じては滅する、生じては滅する。生まれては死ぬ、生まれては死ぬ。何かが人間以外のものが、発生しては消滅する、発生しては消滅する。これが無常です。その生滅滅為、消滅が滅し終わったら、生まれては死に、発生しては消滅しということ、それが無くなれば、それが寂滅です。寂滅為楽。寂滅を以って楽と為す。不生不滅、般若心経に不生不滅とあります。自分たちのことで考えれば、我々は生まれていません。死ぬこともありません。生まれていないものが、死ぬわけがない。この大宇宙、発生すらしていません。無くなることも無い。今現在、有るわけでも無いわけでも無い。この世界。この自分も、有るわけでも無いわけでも無い。生きてもいなければ、死んでもいない。

二見を起こさず。

相対的な考え方に陥るなよと。あるとかないとか、生きているとか死んでいるとか、そういう相対的な考え方を起こさず、

厭わずねがわず。

嫌わず欲せず、

一切の諸法唯是れ一心のみ。

すべての存在はただこの一つの心である。この心、皆さんが坐禅でなりきったところです。一体になったところです。一切の存在は、そこから発生します。

然る後乃ち仏乗たり。

これが本当の仏の教えである。仏乗であるということです。