第三十三則 非心非仏(ひしんひぶつ)

語録提唱

第三十三則 非心非仏(ひしんひぶつ)

2015-10-22

祖(ばそ),因(ちな)みに僧問う,如何(いか)なるか是れ仏(ほとけ)。祖曰く,非心非仏(ひしんひぶつ)

 無門曰く,若(も)し者裏(じゃり)に向かって見得(けんとく)せば,参学(さんがく)の事(じ)畢(おわ)んぬ。

  頌(じゅ)に曰く,

 路(みち)に剣客(けんかく)に逢(あ)わば須(すべか)らく呈すべし。

詩人に遇(あ)わずんば献ずること莫(なか)れ。

人に逢わば且(か)つ三分(さんぶ)を説け。

未(いま)だ全く一片を施すべからず。

 まずは,簡単にあらすじをお話しいたします。

馬祖道一(どういつ)禅師に修行僧が質問した。仏とは何でしょうか。馬祖が答えて曰わく,心ではない,仏ではない。

そこを無門が評して曰わく,もしここが分かれば,禅の修行も卒業である。

それを詩に詠(うた)って,路で剣の達人に会ったならば,剣を抜きなさい。相手が詩人でなければ,詩を呈してはいけない。人に対しては三分だけ説きなさい。全てを説いてはいけない。

,因みに僧問う,如何なるか是れ仏。祖曰く,非心非仏この無門関の三十則に同じ馬大師の即心(そくしん)即仏(そくぶつ)の則がありました。この則と同じく仏とは何でしょうかと問われて,即心即仏,そのままの心が仏であると答えています。そのままの心,今こう聞いている,そして見ている,考えている心。大切なのはそこに自分がいないことです。自我を離れたところの心です。それが即心,そのままの心。そのままというのは,これが容易いものではありません。そのままになるために十年二十年と修行します。すでに皆さんはそのままの様子でこうあるんですけれども,どうしてもそこに自分というものが顔を出してしまう。自我が顔を出してしまう。そこでそのままの心が壊れてしまう。

「主(あるじ)なく見聞(けんもん)覚知(かくち)する人を,生き仏とはこれをいうなり」という歌があります。自分というもの無く,見たり聞いたり考えたりする人。自分という主人がいて,それが見たり聞いたり考えたりしているのではない。何もないものが見たり聞いたり考えたりしている。それが仏です。そこを即心即仏と言います。しかし,そのままの心と言われても,どうしても自分というものが入ってしまう。そこで馬大師は親切にもここでは非心非仏と答えている。

この無門関の第一則は趙州(じょうしゅう)の無字(むじ)です。犬にも仏の本質が有りますかという質問です。公案というものはすべて自分のこととして捉えますから,自分にも仏の本質が有りますかという質問。それに対して趙州和尚は「無」と答えた。ある時,他の修行僧に同じ質問をされてその時は「有」と答えた。無いと有る,正反対のことを答えているようですがここは主が無いところです。自分が無いところで「ムー」「ウー」と。どちらが真実でしょうか。犬がワンワン,猫がニャーニャー,どちらが真実でしょうか。即心即仏,非心非仏。

まあ思いが届かないところです。私たちはどうしてもここを考えてしまいます。人間の一番の業(ごう)です。自分の命,自分の魂,自己の根元。そういったものを考えて理解しようとしてしまう。これはどうしても不可能です。そこで不思量。考えない。道元禅師は不思量底(ふしりょうてい)を思量せよと仰(おっしゃ)っている。皆さんが今,見聞(けんもん)覚知(かくち)しているその主人公は,いくら見よう,聞こう,考えようとしても,その対象にならない。見ているものは見られない。考えている主体は考えの対象にならない。その不思量底,考えの届かないところを考えて見よ。不思量底如何(いかん)が思量せん。考えないところをどうやって考えたらよいのでしょうか。非思量(ひしりょう)。思量にあらず。非心非仏。心にあらず,仏にあらず。

心,そのままの心。自分無く思ってください。「あー今日は寒い」「あー脚が痛い」。自分無く思い自分無く感じる。それが即心。思いに思いつぶれたところです。考えに考えつぶれたところ。いろいろなことに行き惑う。「あーどうしたものかなあ」と思いつぶれる。自分無く思う。思いつぶれたところが非思量,そして非心と言います。仏とは私たちのことです。これがそのまま仏です。即仏。有る,無い。「ウー,ムー」。有りつぶれたところ。即仏,非仏です。

自分の中に,この自分に自分を無くしてしまう。道元禅師に「冬草もみえぬ雪野のしらさぎは,おのが姿に身を隠すなり」という歌があります。草一本生えていない雪原,そこに一羽の白鷺が降り立つ。真っ白の中の白鷺。隠れてしまう。これは外からそういう景色を眺めるのではなく,自分の様子として,スーッと禅定に入って,何にもない。冬草一本無い。そこに自分がスッとおさまる。自分に自分を消してしまう。禅定でこの自分の中に自分を消してしまう。おのが姿に身を隠すなり。自分が自分になりきる。己が己を尽くす。そうすると自分が消えてしまう。非心非仏

犬がワンワンと鳴いている。ワンワンと自分に自分を消し去っている。赤子が「おぎゃーおぎゃー」と,泣き声の中に自分を消し去っている。非心非仏のところです。

無門曰く,若(も)し者に向かって見得せば,参学の事んぬ。そこを無門和尚が評して言うには,ここのところさえ分かれば,仏道修行は卒業である。限りない修行ですが,とりあえず卒業である。

これも道元禅師の有名な言葉ですが,「仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうというは,自己を忘れるなり」。坐禅というのは,自分を忘れる修行です。自分を消し去る修行です。ただ,消し去り方が分からない。消し去り方を間違えている。坐禅中にあれこれの思いが湧いてくる。これは当たり前です。坐禅をしていても自分の知らないところで内臓は動いています。この脳みそも動いています。ですからいろいろな思いが出てくる。聞こえる,見える。この用(はたら)きを止めることが自己を忘れることではありません。その用(はたら)きの中に自分が溶け込んでしまう。坐禅を組んでいて脚が痛い。「あたたたたー」。自分無く痛い。主なく見聞覚知する。

私が修行中,鎌倉ではまだ角付けの芸人さんが出ました。三河万歳が来たりしていました。同じ角付け芸人にくぐつ回しがあります。人形遣い。今もテレビで腹話術ですか,人形遣いが色々やっています。あの人形を使っているのは人です。さてその人は誰が使っているのか。皆さんという人形を誰が使っているのか。見たり聞いたり考えたりしている,皆さんという人形を使っているそれ。それが仏です。そこに気付くためには,見つぶれる,聞きつぶれる。ただ見る,ただ聞く。思いつぶれる,ただ思う。そこに主語がない。見る,聞く,思う。「主なく見聞覚知する人を生き仏とはこれをいうなり」。

そこを漢詩におこして,に剣客に逢わば須らく呈すべし,詩人に遇わずんば献ずること莫れ。人に逢わば且つ三分を説け,未だ全く一片を施すべからず。路で剣の達人にあったらすらりと剣を抜け。詩人の境涯を持った人に詩を呈せよ。分からん人間にあれこれ言ってもしょうがない。人に説明する時は,せいぜい三分で止めておけ。十全を施さない。説こうとしても説けません。今私は精一杯自分を腑分けして話をしていますが,三分も説けない。また,説く才がある方がいても,全てを説いてはいけない。そういうことです。

この非心非仏,即心即仏。これはもうどう手のつけようもない。今境内には白梅がきれいに咲いています。梅の花は何も思わず咲いています。それで全て完結している。手のつけようがない。それをあえて説く。色は白い。花びらが五枚ある。おしべめしべがあり,黄色く散らしたような花粉が見える。そして少し酔うような香りがする。説けてこんなところです。つ三分を説け。梅花一つでも十全は説けません。ましてこの自分の本分のありさま,この仏というもの。今聞いているそれ,皆さんを使っているそれ。これは説ききれません。だ全く一片を施すべからず。

思いの届かないところです。思いは届かないが,それに成ることは出来ます。成りきる,思いつぶれる,有りつぶれる。大三昧の境涯。それが非思量であり,即心即仏であり,非心非仏です。