第三十四則 智不是道(ちふぜどう)

語録提唱

第三十四則 智不是道(ちふぜどう)

2015-10-23

南泉(なんせん)云く,心は是れ仏にあらず。智は是れ道(どう)にあらず。

無門曰く,南泉謂(いっ)つべし,老いて羞(しゅう)を識らず。纔(わず)かに臭を開いて家醜(かしゅう)を外に揚(あ)ぐ。然も是の如くなりと雖(いえど)も,恩を知る者は少なし。

  頌(じゅ)に曰く,

 天晴れて日頭(にっとう)で,雨下って地上湿う。

を尽くして都(すべ)て説き了る,只だ恐る信不及(しんふぎゅう)なることを。

南泉和尚云く,心は仏ではない,智は道ではない。

そこを無門が評して,南泉も年老いて恥知らずなことをする。臭い口を開いて家の恥を外に漏らした。しかしその恩を知る者は少ない。

そこを漢詩に詠って,天が晴れて太陽が顔を出す。雨が降れば地上は潤う。情の限りを尽くして全てを説き終えた。ただ恐れる事は,皆の信が及ばない事である。

南泉云く,心は是れ仏にあらず。智は是れ道にあらず。

この南泉普願(ふがん)禅師は馬祖道一禅師の法を嗣いだ方です。このところ馬祖下の則が多く出てきます。馬祖道一禅師の即心即仏,そして非心非仏が出てきました。

馬祖は仏とは何か,我々の根元,ぎりぎりの処は何かという質問に対して,ある時は即心即仏。あなたのそのままの心,それが仏であると答えた。眼でものを見て,耳で音を聞いて,体で暑さ寒さを感じて,心でいろいろ思っている。そのままの心が仏であると。しかし,そのままというのが難しい。ありのまま,そのまま。これが実に難しい。

そこで同じ事を問われて,ある時は非心非仏と答えている。心にあらず,仏にあらずと。同じ事なんですけれども,そのままの難しさ,多くの人が誤解してしまう。そこで敢えて非心非仏と。非心,心にあらず。思う主体無く見聞覚知する。自分無く見て,自分無く聞き,自分無く思う。六根の用(はたら)きの中にありつぶれた境涯。そして非仏,仏にあらず。これは自分に有りつぶれた境涯です。

しかし自分が無いと言うと,思いで思いを消そう,無くそうとしてしまう。これでは,血で血を洗うようなもので,心はますます紛糾します。そうではなくて,思いの中に思いつぶれる。そこが非心の処です。皆さんの心は,ころころとどこにも住(とど)まりません。「ころころと滞おらぬが仏なり,良くも悪しくも凝(こ)るは鬼なり」で,どこにも住まらない。そこが己のない処です。

馬祖下の祖師方は,即心即仏と言ったり,非心非仏と言ったり,そして今日の南泉和尚は,心は是れ仏にあらず。智は是れ道にあらず。心ではない,智ではない。心という捉えどころのないものが用(はたら)き出した処,それが智です。皆さんが何だろうと考えている,それが智です。それは道ではない。道とは我々の根元。道と言っても仏と言っても同じです。

この南泉の法を嗣いだ方が趙州和尚です。趙州が南泉に如何(いか)なるか是れ道と尋ねた。私の根元とは何でしょうか。南泉は平常心是れ道と答えた。普段の心が道である,そのままの心が道であると。しかし,この「そのまま」がなかなか私たちには理解できない。この趙州も平常心是れ道と言われて,そのままの心になるにはどうしたらよいかと疑問をいだく。たぶん皆さんもそう考える。

智は是れ道にあらず。難しい処です。金剛経に「応無処住(おうむしょじゅう),而生(にしょう)其心(ごしん)」とあります。まさに住(じゅう)するところ無くして,しかもその心を生ずべし。心というものはどこにも住まらない。どこを探しても見つからないけれども,心は用いている。皆さんが自分を振り返ってどこに心があるんだろう,どれが自分の本体だろうと探しても,どこにも見つかりません。でも今こうやって私の声が聞こえる。今日の暖かさを感じることができる。住職は何が言いたいのかなと考える。心はどこにも見あたらないけれども,こう用らいている。

何が見るのか,何が聞くのか,何が思うのか。振り返ってもそれにはお目にかかれません。何だろうと思っているそれ自体が探しているものだからです。探す主体と,探されているものが同じものだから,ぐるぐる回って出口がない。これは何だと振り返ったとたん,それは向こうへ行ってしまう。対象になってしまう。絶対の主体が,対象になってしまう。難しいところです。そこで思いつぶれる。これは何ものだと問うて問うて,問の中に問いつぶれる。

何ヶ月か前に落語家の立川談志さんが亡くなりました。根津や根岸のあたりの寺に出かけると,時々変わった格好の師匠を見かけました。以前談志さんの本を読んだ時,一人称の落語という言葉が出てきました。一人称の落語というのは,成りきって語る噺のことだそうです。自分が,噺を,語るのではなく,成りきって語る。一人称の落語。それに対して,語っている自分を確認しながらの落語,話している自分を脇から見ている落語。これでは本当の落語にならない。一人称で落語を演っていると,その中に自分が入ってしまって,自然に物語が生まれて,昔からの台本にない噺が流れ出すそうです。

坐禅もそうです。坐禅というのは,こう内側から持っていく。一人称で内側から持っていく。聞く者は誰だ,見る者は誰だ。その問いは振り返らない問いです。成りきった問いです。見ているこれ,聞いているこれ,思っているこれは,どうしても対象になりません。絶対の主体です。常に内側から用いているものです。そこに眼を付けてください。何が見ているか,何が聞いているか,何が考えているか。如何なるか是れ仏。工夫のしどころです。

無門曰く,南泉つべし,老いて羞を識らず。纔かに臭を開いて家醜を外に揚ぐ。然も是の如くなりと雖も,恩を知る者は少なし。そこを無門和尚がいつものように卓上抑下,くさして褒めています。南泉和尚は臭い口を開いて,智は是れにあらずなどと,よけいなことを言っている。しかしその恩を知る者は少ない。この大恩を忘れてはいけない。

に曰く, 天晴れて日頭で,雨下って地上湿う。情を尽くして都て説き了る。只だ恐る信不及なることを。そこを漢詩に詠って,雲が消え去ってお日様が顔を出した。雨が降った後は地面がぬれている。己が無い処です。太陽は無心に昇ります。雨は無心に降り注ぎます。ああこうのない用きです。皆さんの根元,仏心,仏性。何にもないものが自由に用いている。何にもないものが,見たり聞いたり考えたりしている。

今西錦司という方に『生物の世界』いう本があります。出征するので遺言代わりに書いたような本です。その中に私たち生き物は,この地球という船に乗り込んだ乗客ではないと書かれています。この地球と我々生物は,元来一つのものである。一つのものが分化発展して,地球と生物になっている。元来一つのものが分かれて船になり,乗客になった。今西錦司さんはそういう譬えで生態系や棲み分けを説いています。

禅的には,この宇宙と我々は同じものが分かれたものです。だから,宇宙のざわめきが我々の中でざわめいている。宇宙のうねりが我々としてうねっている。眼でものを見,耳で音を聞き,鼻で匂いを嗅ぎ,口で話し,体で用き,心で思う。宇宙のうねりが我々としてうねっている処です。一如の世界では,見るものが己を見るのです。聞くものが己を聞くのです。だからただ見て,ただ聞いて,ただ思う。非心非仏,即心即仏。

を尽くして都て説き了る。只だ恐る信不及なることを。私なりに言葉を尽くしています。老婆親切が過ぎると思いますが,水飲み場まではご一緒いたします。あとは皆さんが水を飲むだけです。しかし,どうしても自分で自分を信じ切れない。皆さんはそのままで出来上がりです。何一つ付け足すものはない。ここを信じてください。そのまま,ありのまま。しかし,そのままに成るためには大変な努力が必要です。努力の末のそのままです。工夫専一にお願いします。