無門関第三十二則 外道門仏(げどうもんぶつ)

語録提唱

無門関第三十二則 外道門仏(げどうもんぶつ)

2015-10-22

尊(せそん),因(ちな)みに外道(げどう)問う,有言(うごん)を問わず,無言(むごん)を問わず。世尊座(ざ)に拠(よ)る。外道讃歎して云く,世尊大慈大悲,我が迷雲を開き,我をして得入せしむ。乃ち礼を具(ぐ)して去る。阿難(あなん)尋(つ)いで仏に問う,外道に何の所証(しょしょう)か有って讃歎して去る。世尊云く,世の良馬(りょうめ)の鞭影(べんえい)を見て行くが如し。

無門曰く,阿難は乃ち仏弟子,宛(あた)かも外道の見解に如(し)かず。且(しばら)く道(い)え,外道と仏弟子と相い去ること多少ぞ。

  頌(じゅ)に曰く,

劍刃上(けんにんじょう)に行き,氷稜上(ひょうりょうじょう)に走(わし)る。

階梯(かいてい)に渉(わた)らず,懸崖(けんがい)に手を撒(さっ)す。

釈尊にある時異教徒が質問をした。言葉での説明はいりません。しかし無言でも困ります。そう問われて世尊はスッと禅定に入られた。異教徒がそれを讃歎して言うには,大慈悲をたまわり,私の迷いの雲が払われ,悟りを得ることができました。そう言って礼拝して去っていった。その後阿難尊者が釈尊に質問した。今の異教徒は何を悟るところがあって,讃歎して去ったのでしょうか。釈尊が答えて言うには,良い馬が鞭の影を見て走り出すようなものである。

そこを無門和尚が評して言うには,阿難尊者は仏の弟子である。それなのに異教徒の見解に及ばない。さて,異教徒と仏弟子にどれほどの違いがありましょうか。

そこを漢詩に詠んで言うには,刃の上を歩き,氷の上を走る。修行の段階など通り越して,崖っ淵で手を離す。

,因みに外道問う。外道というと言葉が悪いですが,ここでは異教徒という意味です。仏教以外の道で外道。釈尊当時,六師外道という六人の自由思想家がいました。懐疑論のサンジャヤ,唯物論のアジタ,戒律主義のニガンダなどが有名です。釈尊の十大弟子の舎利弗(しゃりほつ)や目連(もくれん)尊者も初めはサンジャヤのもとで修行していました。

この外道という言葉をもう一つ深く捉えれば外の道。自分の心の外に道を求める,これが外道です。それではその反対は何か。内の道,内道。心の内に道を求める。私たちは心の内に真理を生まれながら持っています。その自分の内にある何かに気付く。そのための坐禅です。外に答を求めるのを止めてスッと禅定に入る。自己にスッと溶け入る。ここがこの則の主題の一つです。

もう一つが言葉の問題です。言葉に迷うのが人間です。そこで有言を問わず,無言を問わず。この異教徒は,もうすでに学ぶことは学びきっています。境涯もあと少しの所まで深まっている。私の頭にはもう言葉は沢山入っています。これ以上の言葉はいりません。かといって無言では何の解決にもなりません。どうぞ私を導いてください。

世尊に拠る。そう言われた釈尊がスッと禅定に入った。外に対して内,内道と言いましたが,本当のところは内外(ないげ)打成(だじょう)一片(いっぺん)の境涯です。自他一如,内の心と外の世界が一如になる。内も外もない,自己も世界もない。そういう境涯。

私たちは自分の心を,この思いを思いで何とかしようとします。それでは見当が違っています。心の泥水は手を出せば出すほど濁ります。至道(しどう)無難(ぶなん)禅師にこういう歌があります。「思わねば思わぬものもなかりけり,思えば思うものとなりけり」。禅定に入って無心になる。そうすると,思わないということも無くなる。私たちには有るとか無いとか,生きているとか死んでいるとか,そういう思いが有ります。しかし禅定の世界,三昧の世界ではそういった有るとか無いとかが無くなります。そして無いということも無くなります。「思わねば思わぬものもなかりけり」。

ここでスッと念が湧く,思いが湧く。「思えば思うものとなりけり」。「もの思わぬは仏の稽古なり」といいます。日常生活では,考えて行わなければならないことが多いですが,こと自分の心の問題に関しては,この思いというのは全く届きません。そこで有言を問わず,無言を問わず。ああ言っても届かない,こう言っても届かない。何も言わなくても届かない。そこで世尊に拠る。スッと禅定に入った。

たとえば赤ん坊に有言を問わず,無言を問わず。一言教えをたまわりたい。赤ん坊は,おぎゃー,おぎゃーと禅定に入って座に拠る。犬に有言を問わず,無言を問わず。ワンワンと無心に吠えて座に拠る。

去年私が入院した時,その大部屋に舌ガンの患者さんがいた。痛くて眠れないので,夜は睡眠薬をもらって眠っていました。舌ガンでしゃべれない,しかし苦しい。意識は無いが苦しみ呻く。ウーウーウー。世尊座に拠る。三昧の端的です。

境内の梅もようやく三分咲きです。その白梅に有言を問わず,無言を問わず。梅は無心に咲いている。世尊座に拠る。「一点(いってん)梅花(ばいか)の蘂(ずい),三千世界香ばし」という禅語があります。一輪の梅花の香りが宇宙一杯に広がる。これは皆さんの様子です。皆さんがスッと咲いている。内外打成一片になれば三千世界が皆さんです。世尊座に拠る。

世尊大慈大悲,我が迷雲を開き,我をして得入せしむ。乃ち礼を具して去る。境涯の深まっていた異教徒はガラリと悟りを開いた。そして礼拝して去っていった。

阿難いで仏に問う,外道に何の所証か有って讃歎して去る。この阿難尊者はやはり仏の十大弟子の一人で,釈尊が亡くなるまでずっと侍者としてお仕えになった方です。ですから釈尊のすべての説法をお聞きになっている。そしてそれをみな覚えていた。多聞(たもん)第一と呼ばれています。しかし,長い間釈尊に随い,その教えをすべて聞いていたにもかかわらず,阿難尊者は釈尊が亡くなるまでに悟りを開くことが出来なかった。釈尊没後,迦葉(かしょう)尊者のもとで修行して悟られた。

学問では届きません。どれだけ説法を聞いても判りません。これは皆さんの出来事です。釈尊の言葉に答を求めても仕方がありません。皆さんの出来事です。皆さんの内にすでに答があります。それは今皆さんに生き生きとはたらいています。

私は昭和六十年に建長寺僧堂に入門しました。初め中川貫道老師に侍者として仕えました。厳しい方で,徹底的にしぼっていただきました。ある日,食事に「卵を持ってこい」と言われました。そこでかけ卵にと思って生でお持ちしました。すると「生でどうするか」。翌日は出汁巻きにしてお持ちしました。すると今度は「卵を持ってこいと言われたら生で持ってこんか」とやられました。何回かそんなことが続き,あるとき気が付きました。貫道老師はそんなことも求めているのではない,これは私の事なんだと。生か調理か,あちらかこちらか。答を貫道老師の中に求めていました。外に求めていました。外道です。答は自分の内にありました。

貫道老師が遷化(せんげ)して,今の吉田正道老師が管長になりました。正道老師にもいろいろ現成公案をいただきました。ある日来客があり,料理を作って酒席の用意をしました。すると老師が「建長寺で一番美味い酒を持ってこい」とおっしゃった。そこで台所を探して美味そうな酒を持っていきましたが,「これではない」。二,三本持っていっても,「これではない」。ああと気付きました。答は老師の中にはない,私にある。自分の様子です。そういう事です。

世尊云く,世のの鞭を見て行くが如し。そこで阿難尊者が釈尊に尋ねた。あの異教徒は何に気付いたのですか。それに対して釈尊は,本当に良い馬というのは,叩かれる前に鞭の影を見て走るものであると答えた。パッと見て取る。

皆さんの心の鏡には,今ここの事態が即時に映ります。今私の言葉が皆さんの鏡に映っています。手元のテキストが映っています。の鞭を見て行くが如し。釈尊がスッと禅定に入ったところを,パッと見て取った。

無門曰く,阿難は乃ち仏弟子,宛かも外道の見解に如かず。且く道え,外道と仏弟子と相い去ること多少ぞ。そこを無門が評して言うには,阿難は仏の弟子である。しかし見識で異教徒に届いていない。この異教徒と阿難とどれだけの違いがあるかと。どちらも同じ鏡です。この両者には何の違いもない。今私の声を聞いているそれ。何だろうなと考えているそれ。同じ鏡です。あるいは,皆さんという人形を動かしている人形遣い。「壬生の狂言洛陽の西,仏出そうと鬼を出そうと」。鬼が出ても仏が出ても同じです。それは人形遣いのはたらきです。仏心,仏性のはたらきです。

皆さんが高尚なことを考える,下品なことを考える。何が心に浮かぼうと関係ありません。その心を遣っている者。そこに眼を付けてください。今何が聞いているか,何が見ているか。同じ鏡です。ただ少し曇りがある。ああであろうか,こうであろうか。有言を問わず,無言を問わず。

に曰く。劍刃上に行き 氷稜上に走る。階梯に渉らず 懸崖に手を撒す。そこを漢詩に詠って言うには,刃の上を歩き,氷の上を走る。ここは自在な用(はたら)きです。

そして階梯に渉らず。少しずつ境涯を深めてゆく修行の仕方を漸悟といいます。それに対して,いきなりガラッと悟る。これを頓悟といいます。禅宗は頓悟の法門です。悟りは皆さんの内にあります。皆さんの中で仏心が生き生きと用(はたら)いています。ただそれに気が付かない。

そこで懸崖に手を撒す人はどうしても何かを掴んでしまう。坐禅中に雑念が湧けばそれを掴んでしまう。放っておけば流れ去るのに,それを掴んでしまう。私たちには心で何かを掴んでしまう癖が付いています。それを放す,心の手を放す。懸崖に手を撒す生死の巌頭(がんとう)で手を放す。一度死に切る,そして絶後に蘇える。

私たちの中に元々あるものです。それにただ気付けばいい。掴んでいるものを放してしまう。出てくる思いに引っかからない。眼があればものが見えます。直に見てください。耳があれば音が聞こえます,直に聞いてください。頭があれば思いが出てきます。直に思ってください,直に考えてください。

この自分の心にすでにあるものに気付くだけです。そうは言っても,現実には地道な精進です。日々の努力です。忙しい毎日に時間を作って少しでも坐る。動中に工夫を重ねる。そうすると少しずつ定力,禅定の力がついてきます。定力がつくと心の手を放す力もついてきます。そうすると見ながら見ない,聞きながら聞かない,思いながら思わない。見つぶす,聞きつぶす,思いつぶす。そういう境涯に到ります。ここは地道な精進しかありません。