無門関第三十一則 趙州勘婆(じょうしゅうかんば)

語録提唱

無門関第三十一則 趙州勘婆(じょうしゅうかんば)

2015-08-3

趙州(じょうしゅう),因(ちなみ)に僧婆子(ばす)に問う,台山(たいざん)の路(みち),甚(いずれ)の処(ところ)に向かってか去る。  婆云く,驀直(まくじき)に去れ。僧纔(わず)かに行くこと三五歩。 婆云く,好箇(こうこ)の師僧(しそう),又た恁麼(いんも)にし去る。後に僧有り,州に挙似(こじ)す。州云く,待て,我れ去って你(なんじ)が与に這(こ)の婆子を勘過せん。明日便ち去って亦(ま)た是の如く問う。婆も亦た是の如く答う。州帰って衆に謂(い)って曰く,台山の婆子,我れ你(なんじ)が与(ため)に勘破(かんぱ)し了(おわ)れり。
無門(むもん)曰く,婆子只だ坐(い)ながら帷幄(いあく)に籌(はか)ることを解して,要且つ賊を著くることを知らず。趙州老人,善く営を偸(ぬす)み塞(さい)を劫(おびや)かすの機を用うること,又た且つ大人の相無し。検点し将(も)ち来たれば,二り倶に過有り。且(しばら)く道(い)え,那裏(なり)か是れ趙州,婆子を勘破する処。
頌(じゅ)に曰く,
問既に一般なれば,答も亦た相い似たり。
飯裏(はんり)に砂有り,泥中(でいちゅう)に刺(いばら)有り。

 

先ずは簡単にあらすじをお話しいたします。
ある時趙州和尚の弟子の修行僧,雲水がこんな話をした。私が五台山にお参りした時,分かれ道でどちらに行くか迷って近くの茶店の婆さんに道を尋ねました。するとその婆さんが,真っ直ぐにお行きなさいというので,数歩そちらに行くとああ,この坊さんもまたそっちに行くか,と言います。道を尋ねた坊さんは,皆この婆さんにやられています。
すると趙州和尚が,よし,儂が行ってその婆さんを見定めてこようと言った。そして翌日五台山の麓まで出かけて,雲水と同じように茶店の婆さんに五台山へはどう行きますかと尋ねると,婆さんはいつも通り真っ直ぐに行きなさいと言う。そして趙州が数歩行くとああ,この坊さんもそっちへ行くかと同じようなやりとりがあった。
その後,趙州が観音院に帰って修行僧たちに言うには例の五台山の婆さんは,儂が腹の底まで見破って来たと。
そこを無門和尚が評して言うには,この婆さんはちょうどテントの中であれこれ謀(はかりごと)をめぐらせる参謀のようなものである。しかし趙州というスパイが入ったことに気付かなかった。趙州もこの婆さんの所で秘密を暴いてきたが,まあ大人気がない。よく点検してみれば二人ともまだまだである。そこで答えてみなさい。趙州はこの婆さんのいったい何を見破ったのか。
それを漢詩で詠って,問いも同じ,答も同じ。旨飯の中に砂がある。やわらかい泥田に棘がある。

初めての方も何人かいらっしゃいますが,この本は無門関(むもんかん)といいます。公案(こうあん)という祖師方の言動を集めたものです。無門関,門のない関所です。高い塀はあるけれども門がない。出口のない関所。
私たちはいろいろな問題を抱えています。病気,人間関係の葛藤,家族の問題,そして何より自分の心の問題。それで皆さん出口を探して坐禅を組んでいるわけです。しかし出口どころか門さえない。これが無門関です。
この無門関の公案,そのどれにも答がありません。門がありません。さてどうやってそこを抜けるか。まず公案を見るときは,何が出てきてもそれを自分のこととして捉えてください。ここに書かれていること全て皆さんの様子です。真っ直ぐ行きなさい。すっと歩き出す。ああそっちへ行ってしまうか。これも皆さんの問題です。
無門関。皆さんは人生の出口を探しています。しかしまわりを探していては埒が明きません。皆さん自身が関門です。これは皆さんの人生のことです。われわれは出口を探しますが,出口はどこかにあるのではなくこの自分にあります。自分が自分に徹すればすっと抜けてしまうところです。前置きが長くなりました。
趙州,因に僧婆子に問う。この趙州和尚は,六十歳まで雲水修行をして,八十歳まであちこちを行脚して,八十でやっと趙州の観音院の住職になった。そして百二十歳まで修行僧の説得をされたという,禅宗の大立て者です。これはその観音院での話です。
台山の路,甚の処に向かってか去る。この五台山は文殊菩薩の霊場です。智慧の象徴,文殊菩薩。そこを目指して多くの坊さんが参詣する。その途中に分かれ道がある。あちらかこちらか,道に迷う,人生に迷う,己に迷う。
婆云く,驀直に去れ。そこで近くの茶店の婆さんに道を尋ねます。しかしこの婆さんがただ者ではない。真っ直ぐ行きなさい。さてどちらが真っ直ぐか。
この本郷通りを行くと分かれ道があります。真っ直ぐ行くと湯島聖堂,左に曲がると根津権現。湯島聖堂で智慧を授かりたい。権現様に救って欲しい。五台山の文殊菩薩にお目に掛かりたい。さてどちらに行ったらよいでしょうか。真っ直ぐ行きなさい。
僧纔かに行くこと三五歩。 婆云く,好箇の師僧,又た恁麼にし去る。真っ直ぐ行くとああ,この坊さんもそっちへ行くか。文殊菩薩,智慧を求めての行脚です。それを外に求めてどうするのか。自分の問題です。この自分が関門,この自己の内に答が,出口があります。それを外に求めてどうするのか。文殊を探しているそれが文殊です。五台山へ行くにはどちらへ行ったらよいか。質問しているそれが文殊です。
私たちは限りある存在です。しかし,その私たちの見聞覚知の用(はたら)きは,この天地自然の,大宇宙の息吹が,私たちとして息吹いている様子です。この大宇宙のうねりが,私たちとしてうねっている。有限の中の無限の用き。天地と我と同根,万物と我と一体の有りようです。
出口はこの自分にあります。文殊はこの自分にあります。だから真っ直ぐ行きなさい。この自分に向かって真っ直ぐに行く。そこを間違えて外に答を求めているからああ,そっちに行くか,とやられる。
州云く,待て,我れ去って你が与に這の婆子を勘過せん。明日便ち去って亦た是の如く問う。婆も亦た是の如く答う。そこで趙州の出番です。修行僧と同様に五台山へはどちらへ行けばよろしいでしょうか。真っ直ぐお行きなさい。数歩歩くとああ,そちらへ行ってしまうか。と同じことを繰り返しました。
州帰って衆に謂って曰く,台山の婆子,我れ你が与に勘破し了れり。そして観音院へ帰って弟子達に,今日あの婆さんを見破ってきたと,こう言いました。さてどう見破ったか。ここは大上段に相手を見定めている訳ではありません。趙州和尚,おそるおそるの体です。
無門曰く,婆子只だ坐ながら帷幄に籌ることを解して,要且つ賊を著くることを知らず。趙州老人,善く営を偸み塞を劫かすの機を用うること,又た且つ大人の相無し。検点し将ち来たれば,二り倶に過有り。

そこを無門和尚が評して言うには,この婆さんはちょうど野戦のテントの中にいる参謀のように智慧をめぐらせている。しかし忍び込んだものに気付いていない。趙州は諜報,スパイのように見事に秘密を見破った。ただ少し大人気ない。点検して見れば二人ともまだまだである。これは托上抑下,けなして褒める。可愛いせがれを,うちの悪たれはいたずらばかりでどうにもなりません。これは可愛いからけなしています。趙州の親父もまだまだである。これもくさして褒めているところです。
且く道え,那裏か是れ趙州,婆子を勘破する処。ところで,趙州は婆さんの何を見て取ったか。ここがこの公案の眼目です。
私が子供の頃もう四十数年前,郷里にはまだ野犬が随分いました。学校の帰り道,ある畑道を通ると決まって野犬がいる。これが毎日怖くて,もう恐る恐るそいつがひそんでいる桑畑の前を通り過ぎました。機嫌が悪いと吠えて追いかけてくるので,もう一目散に逃げました。そのうちに犬取りに取られていなくなりました。趙州もそう婆さんを見破りました。
頌に曰く, 問既に一般なれば 答も亦た相い似たり。飯裏に砂有り 泥中に刺有り。雲水と婆子の問答と,趙州と婆子の問答は,問いも答も変わらない。しかしその裏にある妙用(みょうゆう),みごとな働き。見逃してしまいがちですが,飯の中には砂,田んぼの中には棘があります。
私たちが求めているのは変わらないものです。不易と流行の不易です。今日の技術の発展には全く付いて行けません。スマートフォンですか,何をやっているのか全く分からない。これが流行です。時代と共に変わってゆきます。しかし,その機械を使うこの指はもう何万年変わっていません。それを見つめる眼はもう何万年変わっていません。
流行歌は年々変わります。歌手も年々変わります。さて,その歌を何が聴くのか,その歌手を何が見るのか。これはこの宇宙の発生以前から変わっていません。旨飯の中に砂がある。柔らかい泥田に棘がある。聴くものは誰か,見る者は誰か。ここに眼をつけて坐禅してください。