十牛図 第二
2019-04-3
第二 見跡
序
経に依(よ)って義を解(げ)し、教えを閲(けみ)して蹤(あと)を知る。衆器(しゅうき)の一金たることを明らめ、万物を体して自己と為す。正邪弁ぜずんば、真偽何ぞ分かたん。
未だ斯(こ)の門に入らざれば、権(か)りに見跡と為す。
頌
水辺林下跡偏(ひと)えに多し
芳草離披(りひ)たり見るや也(ま)たいなや
縦(たと)い是(こ)れ深山の更に深き処なるも
遼天の鼻孔(びくう)怎(なん)んぞ他を蔵(かく)さん
経に依って義を解し、教えを閲して蹤を知る。
経典により教義を理解し、教えを学び牛の足跡を見つけた。
この絵は、悟りを牛に譬えている。ここは頭で理解したところです。まだ体得はしていないが、方向は定まりました。
衆器の一金たることを明らめ、万物を体して自己と為す。
器の形は違っても同じ金属で作られるように、万物と自己が一体であることを知った。
これも理解です。天地と我と同根、万物と我と一体の境地です。自分と世界が、同じものの表裏であることが分かった。主客未分の世界を理解できた。後はそこに向かい進むだけです。
正邪弁ぜずんば、真偽何ぞ分かたん。
正と邪がまだはっきりしないので、まだ体得するには至っていないので、本物と偽物の区別は出来ない。
あくまでも理解に留まった段階です。世界と自分の一体感も理解にすぎない。しかし、此処までゆけばたいしたものです。
未だ斯の門に入らざれば、権りに見跡と為す。
まだ理屈でしか分からない門外漢なので、かりに足跡を見つけたものと名づける。
ここへ到ればもう迷う事は何もありません。後はただ今ここに成りきるだけです。自分を振り返らずに、行ってください。
水辺林下跡偏えに多し
水辺や林のあちこちに足跡が沢山残っている。
後はこの足跡をたどり、牛を捕まえるだけです。本来逃げていない牛です、自分の周りは足跡だらけです。分別の雲により牛が見えない。
芳草離披たり見るや也たいなや
香り高い草が茂っているのを見たか見えないか。
悟りは目の前、足元に有ります。見るものと一体、外の音と一体になる。あれは自分の音です。
縦い是れ深山の更に深き処なるも
そこがどれだけ山深くとも、
いまは理解に留まっているが、
遼天の鼻孔怎んぞ他を蔵(かく)さん
天に届く鼻面が、そこに見えているぞ。
我々は本来悟っています。すでに救われた後の姿です。それを見ようとしても、見ているものが悟りですから見ることが出来ない。自分を振り返っても見ているものは、常にこちらにある。ですから振り返らない。坐禅中に自分の坐禅を確認しない。見ずに、その行為に成りきる。見ずに成る。そこで気づきます。
我々には二人の自分がいます。行為している自分と、確認している自分。たとえば数えている自分と、上手く数えているかなあと確認している自分。この確認している、見ている自分をなくす。そして、ただ数える。そこに本来の自分がいます。