信心銘 第七

語録提唱

信心銘 第七

2019-03-29

心を将(も)って心を用う 豈(あに)大錯(たいしゃく)に非ずや
迷えば寂(じゃく)乱(らん)を生じ 悟れば好悪(こうお)無し
一切の二辺 妄りに自から斟酌す
夢幻空華 何ぞ把捉(はそく)を労せん
得失是非 一時に放却せよ
眼若し睡らざれば 諸夢自から除く
心若し異ならざれば 万法一如(いちにょ)なり
一如体玄なれば 兀(こつ)爾(じ)として縁を忘ず
万法斉しく観ずれば 帰復自然なり
 
心を将って心を用う 豈大錯に非ずや
この心が分かれて、世界が展開します。分かれてしまったものを元の一心に還すのが坐禅です。そのために、二つのことを繰り返し提唱しています。一つは分別を握った手を放すこと。自他が分かれ、有無が分かれ、生死が分かれる。これが分別、それを握った意識の手を開く。
もう一つは、一心が相対に、両辺に分かれた時は、その一方に成る。善悪に分かれたら善に徹底するか、悪に成りきる。そこに善悪をなす自分もいなければ、対象もない。損得に分かれたら、損に成りきるか得に成りきる。これを中道といいます。
ずっとこの二つだけをお話しています。手を放す。どちらかに成りきる。実のところ、この二つは同じところを狙っています。
さて、皆さんは心で心を静めようとしています。これは大きな間違えです。ただ意識の手を放す。本当に放せば、念に静も動もありません。
我々には、沢山の煩悩があります。しかし、あれが欲しいの、あいつが憎いのとは、たいした煩悩ではありません。たいした執着ではありません。一番の煩悩は、ものの見方や考え方です。有無、善悪、生死。これを放す。分別心を放す。
坐禅中に次々念が起こる。その念を何とかしようとする。見れば見える、聞けば聞こえる。それを何とかしようとする。せっかく見えているのに、聞こえているのに、それを止めようとする。しかも対象を何とかしようとしている。そうではなくこちらの手を放す。心で心を静めようとするのは、大きな間違えです。
 
迷えば寂(じゃく)乱(らん)を生じ 悟れば好悪(こうお)無し
乱れた心を調えようとするのは間違えです。只、分別の手を放すだけ。そうすれば自然に相対性はなくなります。
 
一切の二辺 妄りに自から斟酌す
相対的に出来ているこの世界は、分別から生まれます。徹底して有無の見方、生死の考え方から離れる。
 
夢幻空華 何ぞ把捉(はそく)を労せん
夢や幻を捉える必要はありません。ただ二見をやめる。両辺に見ることをやめる。
 
得失是非 一時に放却せよ
一切の分別、判断、解釈、見解、これをやめる。根こそぎやめる。そうすると元の一心に戻ります。
 
眼若し睡らざれば 諸夢自から除く
眠らなければ夢は見ない。
 
心若し異ならざれば 万法一如(いちにょ)なり
心を分別しなければ、全ての存在は一如になります。一心に還ります。
 
一如体玄なれば 兀(こつ)爾(じ)として縁を忘ず
一の本体は、あれこれを遠く離れた存在です。これに有無、生死、天地、左右、男女。そういう色をつけてしまう。何遍も言います。この分別を本当にやめる。
 
万法斉しく観ずれば 帰復自然なり
分別の色をつけずに世界を見れば。規定しないで、定義しないで、判断しないでこの世界を見れば、元の一心に戻ります。本来のところに還ります。