信心銘 第六

語録提唱

信心銘 第六

2018-11-15

繋(け)念(ねん)すれば真に乖(そむ)き 昏沈(こんちん)して不好なり 
不好なれば神を労す 何ぞ疎(そ)親(しん)を用いん 
一乘に趣かんと欲せば 六塵を悪(にく)むこと勿れ 
六塵を悪まざれば 還って正覚に同じ 
智者は無為なり 愚人は自縛す
法に異法無し 妄りに自から愛著す
 
繋念すれば真に乖き 昏沈して不好なり
禅定の方法の一つに繋縁止観というのがあります。丹田に意識を置いて散乱させない。これは初心者に対する一つの方法です。これが繋念です。念を一所に繋ける。しかし三祖はそれでは真実に背くと言っている。初心者には良いが、本来はもっと自由なものです。
それでは気持が沈んでしまい、自由から遠ざかってしまう。
 
不好なれば神を労す 何ぞ疎親を用いん
自由でなければ、精神を費やす。
ここは交差点の横に立つお寺ですから、実にやかましい。下で来客の声もする。その騒いだ念を何とか沈めようとする。神を労す。これをやめる。
自分がいて外の音を聞いているうちは駄目です。自分も対象もなく、ただブーーと成る、徹する。
道のどこに近い遠いの区別があるか。今外を車が走った。あれは遠いですか、近いですか。あれは自分が鳴っている。自分の音です。
 
一乘に趣かんと欲せば 六塵を悪むこと勿れ 
本当のことを知りたければ、色、声、香、味、触、法の六塵。六根の対象を嫌ってはいけない。
私が「あ」と言えば、皆さんはころりと「あ」になってしまう。何かを見れば、ああもこうもなく、見たものになってしまう。我々はそう出来ています。
その六根が働くとき自分がいない。対象もない。ただ見聞覚知だけがこうある。それが分かれて主観と客観、自分と対象になります。その対象を憎まない。
 
六塵を悪まざれば 還って正覚に同じ
坐禅を組んで、眼を半眼にすれば、絨毯が見えてしまう。これを無くそうとしない。払わない。どうしても意識が何物かを掴んでしまう。この意識の手を開く。有るの無いの、生きている、死んでいる。損だ得だ。これは事実ではなく分別です。これを掴んでいる。それを放す。そのままです、このままです。何も判断しない、解釈もしない。
握った見方を放す、それだけ。ただ手を放す。これは悟りと同じである。
 
智者は無為なり 愚人は自縛す
智慧のある人は、何もしない。ただいつでも手を放している。何かを握るということがない。手は開きっぱなし。
迷う我々は、何かを掴んでしまう。いつも手を握っている。
 
法に異法無し 妄りに自から愛著す
存在に正解や間違えなどない。あのローソクは何か間違ってますか。
握るから、執着するから誤る。手を放せば、解釈、判断、分別しなければ、あるがままです。