伝心法要 第四十三
2018-04-20
此れは是れ汝の清浄法身なり。名づけて阿(あ)褥(のく)菩提と為す。若し此の意を会せずんば、縦い汝多知を学得し、勤苦修行し、草衣木食すとも、自心を識らず、尽く邪行と名づく。定んで天魔の眷属と作らん。此の如きの修行は、当に復た何の益かあらん。志公云く、仏は本是れ自心の作るもの、那(なん)ぞ文字の中に向かって求むることを得んと。饒(たと)い汝三賢四果十地の満心を学得すとも、也た凡聖の中に在って坐するのみ。
此れは是れ汝の清浄法身なり。
これは前回の応無所住、而生其心の心。これが自分の清浄法身であると。応無所住、而生其心。まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし。自分の心、どこを探してもない。内にも外にもない。中間にもない。
まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし。今私の声を聞いている、目前のテキストを見ている。どこを探しても心は見つからないが、このように自由に働いています。
私足が利かないものですから、今日の初心の指導の最後でころびそうになりました。そしたら初心指道を受けていた皆さんが全員、パッと手を出してくれた。応無所住、而生其心です。誰も私が転ぶなんて思ってもいない。でもパッと手が出る。無心の働きです。
皆さん表面に現れる念にばかり気持が行く。しかしいきなり本来の無心が出てくる。念を離れてその奥にある無心が働く。
此れは是れ汝の清浄法身なり。ここでいう清浄とは綺麗、汚いの二元を離れたところ、そこが清浄です。法身、仏の本質。これが皆さんの心です。自己を離れて、しかし自己として働いています。
名づけて阿褥菩提と為す。
最高の悟りと名づける。この心が最高の悟りである。
若し此の意を会せずんば、縦い汝多知を学得し、勤苦修行し、草衣木食すとも、自心を識らず、尽く邪行と名づく。
ここが分からなければ、たとえどんなに物知りであっても、仏教学に通じていても。逆に苦しい修行を積んでも、粗末な衣で木の実や野草を食べて修行しても。心というものが分からなければ、すべて邪行である。
自己を超えているが、今ここで自己として働いている心。今、あれこれ見聞きして、考えている自分の心です。
定んで天魔の眷属と作らん。
来世は天魔の眷属と生まれるであろう。
此の如きの修行は、当に復た何の益かあらん。
こんな修行をしていて何になろうか。ただ心を知ればそれで終わりです。
もうほとんどの方がお分かりかと思います。心とは自分が成りきったところです。
どこにも住まらない、しかし自由に働いている。一体の境地、打成一片の境涯、その何も無いところが自在に働く。これが心です。
妄想、分別のため、この心が分かれて相対になってしまう。
志公云く、仏は本是れ自心の作るもの、那ぞ文字の中に向かって求むることを得んと。
この志公というのは、中国の梁の方で宝誌和尚のことです。達磨大師は例の不識の問答で梁を離れましたが、志公はずっと梁に止まっています。
その志公云く、仏は本是れ自心の作るもの。仏を自分の外に求めない。対象にしない。対象化すればもう自分と分かれている。仏と自分と一体です。一心に還す。心と仏は同じものです。
どうして文字の中に、学問の中に求めるのか。
饒い汝三賢四果十地の満心を学得すとも、也た凡聖の中に在って坐するのみ。
三賢四果十地、修行の階梯です。そんなものを学得しても、相対性の中の出来事である。
禅に学問はいりません。ただ成る、成りきる。ここで工夫する。それだけです。