伝心法要 第十二

語録提唱

伝心法要 第十二

2017-01-5

学道の人疑うこと莫れ、四大を身と為せば、四大に我無く、我も亦主無し。故に知んぬ、此の身我無く、亦主も無きことを。五陰を心と為せば、五陰に我無く、亦主無し。故に知んぬ、此の心我無く、亦主も無きことを。六根六塵六識の和合し生滅するも、亦復此の如し。十八界既に空なれば、一切皆空なり。唯、本心のみ有りて、蕩然として清浄なり。
識食をあり智食あり、四大の身は飢瘡を患と為せば、随順給養して貪著を生ぜざるを、之を智食と謂い、情を恣にして味を取り妄りに分別を生じ、唯、口に適せんことを求めて厭離を生ぜざる、之を識食と謂う。
声聞は声に因って得悟す。故に之を声聞と謂う。但、自心を了せずして、声教の上に於いてのみ解を起し、或いは神通に因り、或いは瑞相言語運動に因り、菩提涅槃有ることを聞いて、三僧祇劫修して仏道を成ずとなすは、皆声聞道に属す。之を声聞仏と謂う。

学道の人、疑うこと莫れ。
学道の人とは、皆さんです。皆さんのことです。疑っちゃいかんと。
四大を身と為せば。
四大というのは、地水火風。この体や世界を構成している四つの要素のことです。この肉体は、地でできています。血液や、リンパ液といったものは、水でできています。この体温は、火でできています。この呼吸は風でできています。地水火風。今は科学が発達していますから、原子やら素粒子やら、そういったものでこの体ができていると。仏教的には地水火風の四つでこの体ができていると。今の科学でも、言ってみれば同じです。物でこの体ができている。いろいろな要素が集まって、この体ができていると。
四大に我無く。
地に我はありません。我というのは自我の我。自分の主体、そのように取ってください。主体。自我。あるいは霊魂のようなもの。地にそういう我はない。水にそういう我はない。火に、そういう我はない。風に、そういう我はない。この体を構成している、物質的なものには我はない。
我も亦主無し。
ここの「我も」の2文字は、テキストの乱れだと思います。消していただいて結構です。
亦主無し。
この、自分を主宰するような自己、自我、魂、そのようなものはない。
この肉体は物でできています。四大であろうが、素粒子であろうが、物質です。例えば、車というもの。車というのは、タイヤやら、エンジンやら、ブレーキやらで出来ている。その一つ一つが、また細かな部品に分かれる、それらが寄り集まって、車というものができています。さて、そのどの部分が車なのでしょうか。エンジンも、タイヤも、ハンドルも、車の我、主体ではない。それらが寄り集まって、車というものが縁起しているだけです。家、この建物には柱があり、梁があり、畳があり、壁があり、天井がありと。そのどれが家の本質か。この家というのは、いろいろなものが集まって、家の形をとっているだけです。家という本体はありません。
これは空のことを言いたいんです。車も空である。家、建物も空である。いわんやこの肉体、これも空である。主催するものなど何もない。色即是空です。
故に知んぬ、此の身我無く、亦主も無きことを。
この肉体は、空である。縁起としての存在である。体には、何か本質らしいもの、本体らしいもの、自我らしいものはない。
五陰を心と為せば、五陰に我無く、亦主無し。
五陰というのは、般若心経に出てくる、色受想行識です。心というのはその後半の受相行識、心を四つに分けています。
受というのは、あ、と言ったときに皆さんがそれを聞く働き、これを聞いた瞬間が感受、受です。
想というのは、表象です。今の声は住職の声だというふうに表象したところ、これが想。
行というのは、意志のことです。頑張って坐禅を組むぞ、と。
識というのは、それらを総合した判断のことです。分別のことです。
我われの心というのは、受想行識というように分けられます。そのどれかに自我があるでしょうか。そのどれかに我々を主宰するものがあるでしょうか。皆さん最後の識、判断だとか分別だとかを、自分だと誤解する。これが一番根源的な誤解です。判断であるとか、分別であるとか、これが我々を迷わせている。本来悟っている我々を迷わせているものです。
受想行識、そのどれをとってもわれわれの自我はありません。いわんや、その集合体である心には、自我などありません。先ほどの家や、車の例えを思い出してください。ただ寄り集まっているだけです。
故に知んぬ、此の心我無く、亦主も無きことを。
この心には主人はいない、主体がない。
六根六塵六識の和合し生滅するも、亦復此の如し。
六根、眼耳鼻舌身意、目、耳、鼻、舌、からだ、意識。六つの感覚器官です。この六つの感覚器官で、私たちは外界を認識する。これが六根。六塵というのはその感覚器官の対象。色声香味触法。眼には色があります。耳には音があります。鼻には香りがあります。舌には味があります。体には、触覚があります。そして、意識には、意識の対象があります。これを六塵と言います。六根と六塵。目が色を見る、そうすると、眼識といわれる意識が生じます。それが六根すべてにある、六識。この心とか、体とか、自分だと考えているもの、これは六根、六塵、六識が、こう寄り集まって、働いているだけです。これはとても大切なところです。六根、六塵、六識、私が今こう話をすれば、皆さんには聞こえている。テキストを見れば、テキストが見える。住職は一体何を言ってるんだろうと、考えることができる。この六根の働きだけがあります。それを主宰している自我というものはありません。六根が、六塵とぶつかり、六識を生ずる。これが縁起です。その中にも、自我とか、己とか、霊魂とか、魂とか、そういったものはありません。それらが和合しているだけです。生滅しているだけです。どこにも我がなく、どこにも主がない。
十八界、これ既に空なれば、一切皆空なり。
十八界。六根六塵六識、3x6=18。十八界、これが既に空であると。空であるというのは、縁起しているということです。どこにも実態がないということです。自我がないということです。本質がないということです。十八界一切皆空なり。
般若心経では、五陰皆空と、五陰、色受相行識、この世界を構成しているすべてです。五陰皆空と言っています。一切皆空と同じです。総ては空であると。総ては関係によって、仮にこういうふうに現象しているだけで、そこには本質はない。自我はない。
唯、本心のみ有りて、蕩然として清浄なり。
ここでやっと伝心法要の主題、心というのが出てきました。この本心、これがどのようなものであるかを、伝心法要ではずっと説いています。仏心であり、無心であり、法身であり、真如ある。唯、本心のみ有りて、蕩然として清浄なり。そういうと何か本心というものがあると思ってしまう。これも空です。逆に言ってみれば、空が本心です。この心というのが分からない。坐禅を組んで、深い三昧に入って、深い三昧を発得すれば一目瞭然なんですが。なぜ分からないか。これは意識以前にあるものだからです。分かるというのは意識の働きです。あ、と私が言うと、皆さんは、あ、と聞く。皆さんが聞いて、チラッと分別が起こる。チラッと意識が起こる。それ以前の絶対体験だから分からない。
六根の働きは、コロコロコロっと、皆さんの上に働いています。皆さんはそれを、意識でとらえてしまうから、思いでとらえてしまうから、いつまでたってもそれ以前のところに行けない。思った以前にあります。それが本心です。意識は届かない。
この指、何でも触れます。でも、この指先は指先自体を触ることはできません。これがこれだからです。皆さんの本心というのは、この指先が指先を触れないように、本心は本心を知ることができません。無心は無心を知ることはできません。皆さんが坐禅を組んで無心の状態に入る。ああ、自分は今無心に入っているなあ、と思ったとたんに有心に落ちてしまいます。無心というのは、見ることも聞くことも感じることもできません。本心も同じです。本心と無心というのは同じです。仏心というのも同じことです。
それ以前にあります。ですから、毎回言うように、それを見ようとせずに、感じようとせずに、成る。目は、何でも見ることができることはできるけれども、眼自体を見ることはできない。同じように、本心は本心を見ることはできない。だから成る。皆さんは、自分の寝姿を見ることはできない、でも寝ることはできる。見ずに成る。皆さんは自分の死体を見ることはできない、でも死ぬことはできる。見ずになる。
このあとはとても簡単なことばかりです。
識食をあり智食あり、四大の身は飢瘡を患と為せば、随順給養して貪著を生ぜざるを、之を智食と謂い、情を恣にして味を取り妄りに分別を生じ、唯、口に適せんことを求めて厭離を生ぜざる、之を識食と謂う。
この体は飢えで病気になってしまう。飢えて死んでしまうから、必要に応じて、必要な分だけ食べて、そこに執着をしないと。食べ物に執著をしない。これを智食と謂う。これはうまい、これはまずい。これは好きだ、これは嫌いだと分別して食べる。これを識食と謂う。
声聞は声に因って得悟す。故に之を声聞と謂う。
三乗と言います。声聞乗、独覚乗、それから菩薩乗。そのうち声聞というのは、お釈迦様の話を聞いて、長い時間修業して悟りを開くのを、声聞といいます。
但、自心を了ぜずして。
自心というのは、これは先ほどの本心と同じです。これはすでに皆さんのところにある。というかこれが皆さんです。皆さんそのものです。
声教の上に於いてのみ解を起し。
私が今こう話をしていて、住職は今こう言うことを言っているのかなあ、こういうことかなあと。解を起こすとはそういうことです、考えるということです。解を起こし、それで、あ、こういうことかと納得する。これを声聞といいます。私の言うことなど、遠回りです。直に自分の中に自心を知れば、それで済みます。それで終わりです。皆さんの中にすでにある。皆さんは自心の現れである。
或いは神通に因り。
そんなものがあるのかどうかわかりませんが、神通力により、まあ、様々な新興宗教が起こって、神通力の様なものを売り物にして、金儲けをしております。くれぐれも騙されんように。
或いは瑞相言語運動に因り。
お釈迦様の素晴らしいお姿を見て、或いは、素晴らしい言葉を聞いて、或いは、美しい所作を見て、
菩提涅槃有ることを聞いて、
悟り、涅槃があることを聞いて、
三僧祇劫修して仏道を成ずとなすは、皆声聞道に属す。之を声聞仏と謂う。
気が遠くなるほど長く修業して成仏する。もう私の声が聞こえている所で、皆さん悟っているんです。悟りというのは、何かと一体になることです。何かと一体になったところで、気が付くことを、悟りといいます。今私の声を聴いてるというのは、私の声と一体になっているんです。自分が住職の声を聴いているわけではありません。自分が、住職の声を、聴く。もう三つです。あるのは、聞いているというこの事態だけ。これを分別すると、言葉を発している私が現れ、言葉を聞いている自分が現れてしまう。一つになる。
先程初心指導で、数息観を行うときは、自分が息を数えるのではなく、数だけに集中してくださいと言いました。数が数を数える。そこには自分などない。息、肉体などない。ただ数だけがある、一つになる。一つになると、無くなります。一体になると、無くなります。無いということもなくなります。無いというのは相対性です。有があるから、無がある。その無もない。
今聞いている、今見ている、六根の働き、これをパッと開放してしまう。そしてコロコロコロと、坂道を玉が転がるように、六根の働きのままに、スーッと己なく働く。そうすると気が付きます。あるとき、いきなり気が付きます。ご精進を。