伝心法要 第十一

語録提唱

伝心法要 第十一

2016-11-17

決定して一切法本所有無く、亦所得無く、依も無く住も無く、能も無く所も無しと知って、妄念を動ぜずんば、便ち菩提を証せん。道を証する時に及んで、祇、本心仏を証するのみ。歴劫の功用、並びに是れ虚修なり。力士の珠を得る時、祇、本の額の珠を得るのみ。外に向かって求覓(ぐべき)せし力に関わらざるが如し。故に仏言く、我は阿耨(あのく)菩提に於いて実に所得なしと。人の信ぜざるを恐るるが故に、五眼の所見、五語の所言を引く。真実にして虚ならず。是れ第一義諦なり。

決定して一切法本所有無く。
一切法、ここでいう法というのは、存在というふうに取ってください。一切法本所有無く。いろいろな物がこうあるように見えます。向こう側に、外にあるように見えます。今外でバイクの音がしている。バイクの音が外から聞こえていると。そうではない。今ここの自分のところにあります。すべての存在は、今ここの自分にあります。一度自分を無くしてみれば、この全世界が自分になります。自分がいるから、この世界はこう外に見えます。しかし、自分というのが無くなれば、この世界はすべて自分です。そうすると所有無く。何も無い。無いということも無い。
亦所得無く。
坐禅を組んで、ある体験をしたい。ある境地に至りたい。それを所得と言います。所得なくです。坐禅を組んでも得るものは何もありません。坐禅は捨てるための行為です。捨てて捨てて、己がすっかりなくなる。そうすると全てが自分になる。
悟りというのは、遠くにはありません。今ここの事態です。見える聞こえる、匂いがする、味がする、熱い寒いがわかる、いろいろ考えられる。これが悟りです。そして、ややこしいことに、これが煩悩です。何が悟りと煩悩を分けているか。そこをずっと説いています。亦所得なく。何も得るものはない。
依も無く住も無く。
何かに依るということも無ければ、とどまるということも無い。坐禅中いろいろな思いが湧いてくる。追いかけない。邪魔にもしない。それはただあるだけです。そうあるだけ。それに依ることもなければ、とどまることもしない。サーッと清流のように流す。
能も無く所も無しと知って。
能というのは主観です。所というのは客観です。私いまロウソクを見ています。私が、ロウソクを、見る。主観と客観が分かれた二元の世界。これが迷いです。私がロウソクです。
妄念を動ぜずんば。
私たちはどうしても言葉に引きづられてしまいます。自分が住職の声を聴いている。自分がテキストを見ている。主観と客観が分かれています。皆さんが外の車の音を聞いているのではなく、外の音は皆さんです。私が手が鳴ったんじゃない。皆さんが鳴っています。そこに、ちらっと一念起きてしまう。あるいは言葉にしてしまう。住職が、手をたたいて、音が、聞こえる。妄念が動じるところです。ブーと音がしたら、ブーとなる。止めば何にもない。私の声が聞こえている。しゃべるのを止めれば無い。ただ今ここの事態にある。コロコロコロ―と今ここ今ここ今ここ。そこに思いがふっと出てきて、台無しにしてしまいます。
便ち菩提を証せん。
それが悟りであると。悟りというのは、特別なことではありません。確かにある体験をして、そこがはっきりするということはあります。でもそんな体験があっても無くても、皆さんは悟りのど真ん中です。ここから始めてください。
道を証する時に及んで、祇、本心仏を証するのみ。
今、ある体験をすると言いました。そこで何を体験するのかといったら、自分はもともと悟っていたということを体験するだけです。ただ本心仏を証するのみ。
歴劫の功用、並びに是れ虚修なり。
何をしたやら三十年。私も十九の時に坐禅を始めて、五十五歳になって、何をしてきたのかと。もともと悟っているじゃないか。何を苦労することがあったんだろうか。禅では円相というのを書きます。まず半周、修業を重ねてある体験をする。これを向上の修業と言います。そこから、向下の修業、これが大変。悟後の修業、もう半周。そして元に戻る。最初と最後では、何も違わない。私はそんな立派な悟りなど開いていませんが、修業を始める前から、眼は横に、鼻は縦についていた。何一つ変わっていません。ただ一つだけ、不要なものが無くなった。我見です。歴劫の功用、並びに是れ虚修なり。長い間の修業は、まあ虚しいものであったと。
力士の珠を得る時、祇、本の額の珠を得るのみ。
インドの方は額に宝石を埋め込みます。ある力持ちの男が、ああ珠が無くなった、宝石が無くなったと、あちこち探して回ったけれども、ある賢者が、そこにあるじゃないかと。もともとあるものに気が付くだけです。自分がもともと悟りの世界の住人だったと、気が付くだけです。
外に向かって求覓せし力に関わらざるが如し。
力士かあちこち尋ねまわったように、私たちは、仏心仏性をさがしている。探すという行為は、探すものを対象化しています。自己の内側を探しても、それは対象化です。向こうにおいてしまう。みなここにあります。直下、即今。
今、消防車のサイレンが聞こえるでしょう。サイレンなんて皆さん聞く気は全くなかった。でも音がすれば聞こえちゃう。これが無心です。無心だから聞こえちゃう。ここは救急車や、消防車がよく通ります。坐禅中にウー、ウー、ブー、ブー。うるさいと思っているのは外にあると思っているからです。今のサイレンは皆さんの音です。皆さんの事態です。
世界と自分が一如に、一体になった状態を三昧と言います。三昧の境地にはもう何も無い。主体も客体もない。この三昧は、見ることも聞くことも感じることもできません。対象にならないからです。一如だからです。何か音がする、どうしても思いで聞いてしまう。思い以前です。
三昧というのは、見ることも聞くことも感じることもできませんが、成ることはできます。目は何でも見ることができるけれども、目自体を見ることはできない。ただ見るんです。皆さんは、自分の寝姿を見ることはできない、でも、寝ることはできる。見ずに、成るんです。
故に仏言く、我は阿耨菩提に於いて実に所得なしと。
だから釈尊は、自分は最高の悟りを開いた時、何も得るものがなかったと仰った。何だ、自分は本来悟ってたじゃないか。
人の信ぜざるを恐るるが故に、五眼の所見、五語の所言を引く。
しかし、皆それを信じない。だから人間や天や、菩薩や仏の見方など、いろいろと説く。人間の言葉で、天の言葉で、菩薩の言葉で、仏の言葉で、ああのこうの言うけれども、それは方便であると。私が、皆さんはすでに悟っていると、何百回言っても皆さんは信じない。それで、こう言葉を費やしているわけです。
真実にして、虚ならず。是れ第一義諦なり。
皆さんはすでに悟っています。皆さんはすでに救われた後の姿です。これが、第一義諦です。