無門関四十三則 首山竹篦(しゅざんしっぺい)

語録提唱

無門関四十三則 首山竹篦(しゅざんしっぺい)

2016-03-3

四十三則 首山竹篦(しゅざんしっぺい)
首山(しゅざん)和尚,竹篦(しっぺい)を拈(ねん)じて衆に示して云く,汝等(ら)諸人,若(も)し喚んで竹篦と作(な)さば則ち触(ふ)る。喚んで竹篦と作さざれば則ち背(そむ)く。汝諸人,且(しばら)く道(い)え,喚んで甚麼(なん)とか作さん。
無門曰く,喚んで竹篦と作さば則ち触る。喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。有語(うご)することを得ず,無語(むご)することを得ず。速(すみ)やかに道え,速やかに道え。
 頌に曰く,
竹篦を拈起(ねんき)して,殺活(せっかつ)の令を行ず。
背触(はいそく)交馳(こうち)す,仏祖も命を乞う。
 首山省念(しょうねん)和尚が竹箆を拈じて修行僧たちに言うには、これを竹箆と呼べばそれは間違いである。竹箆と呼ばなければそれもまた嘘になる。それでは何と呼ぶか。    
 そこを無門が評して、竹箆と呼べば誤る。竹箆と呼ばなければ嘘になる。語ってもいけない。黙っても駄目である。さっさと答えろ、さっさと答えろ。
 そこを漢詩に詠って、竹箆を拈じて命ぎりぎりのやり取りを行っている。背触(はいそく)が入り混じった処、ここでは釈迦も達磨も命乞いをする。
 だいたいそんな筋です。
首山和尚,竹篦を拈じて衆に示して云く,汝等諸人,若し喚んで竹篦と作さば則ち触る。喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。汝諸人,且く道え,喚んで甚麼とか作さん。この首山省念和尚という方は臨済五世の法孫です。その首山が竹箆、まあ短い警策(けいさく)です。入室(にっしつ)の時などに修行者を策励するために使います。その竹箆を拈じて、これを竹箆と呼んでは誤りである、呼ばなければ嘘になると示した。さて皆さんならこれを何と呼びますか。
前にも三遊亭円朝と山岡鉄舟のやり取りをお話ししました。鉄舟に望まれて桃太郎を一席演った円朝に対して、鉄舟は母の桃太郎の方がずっとおもしろかった。あんたの噺は口で語るからつまらない、舌を使わずに語ってみろと言った。思い迷った円朝は、その後ずっと坐禅を組んである時気づいた。そしてもう一度噺をしたところ鉄舟はそれを認めて、円朝に無舌(むぜつ)居士(こじ)、舌の無い居士という名を与えたそうです。舌の無い落語家。語って語らない境涯。さて竹箆をなんと呼ぶか。円朝なら何と答えるか。
今私が首に掛けているこれの名前を皆さんは多分知らない。これは絡子(らくす)と言います。袈裟の一種で五條(ごじょう)袈裟(げさ)とも言います。これを何も知らない人に見せたら何の布きれだろう、なにか切り張りしたおかしな布だな、テーブルクロスかなとか考えるかもしれません。しかし今私は絡子の説明をしてしまった。皆さんにとってもう一生これは、絡子という坊さんが掛ける小さな袈裟になってしまいました。これが言葉というものです。
これは片方からの見方ですが、この世界元来何も有りません。禅定の深みではこの世界塵一つ無い。自分も無ければ世界も無い。無いということも無い。
若し喚んで竹篦と作さば則ち触る。喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。汝諸人,且く道え,喚んで甚麼とか作さん。これは竹箆ですよと言えば言葉に落ちてしまう。迷いの世界に落ちてしまう。これは竹箆ではないと言えば事実目前と異なる。これはこの世界では竹箆です。これは畳、あれは柱。しかし三昧の世界から見れば何も無い。
平等無き差別(しゃべつ)は仏法に準ぜず、悪差別なるがゆえに、という言葉があります。平等とは禅定ですべてを空じた境涯です。差別とは今皆さんが見ているこの世界。柱は縦に敷居は横に。生死が分かれ、有無が分かれ、自他が分かれた相対世界。平等は絶対、差別は相対のことです。平等の裏づけのない差別は正しい仏教ではない、誤った差別である。
そして、差別無き平等は仏法に準ぜず、悪平等なるがゆえに。この相対の現実世界を離れた平等三昧の世界、これは正しい仏教ではない。誤った平等である。この後半は判り難いかもしれませんが、最後の頌に出てくる背触交馳す。平等と差別が入り混じっている。これが世界の本来の在り方です。般若心経はそこを色即是空、空即是色という言葉で現わしています。色が差別、相対の世界。空が平等、絶対の世界。色がそのまま空、空がそのまま色。平等を離れて差別の世界はない。差別を離れて平等の世界は無い。首山竹箆はこの辺の消息を語った則です。
私たちはどうしても言葉に執われてしまいます。竹箆といえばああそれは竹箆なんだ、警策といえば警策なんだと。その通りなんです。この差別の事実を離れて別に平等三昧の世界があるわけではない。確かに何も無くなってしまう境地というのもあるのでしょう。しかしその無に住(とど)まっては何の用(はた)らきもない。深い穴倉です。
先ほど記帳していただいた部屋に小さな仏様が祀ってあります。正面にお釈迦様、獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普賢菩薩が両脇にいらっしゃる。あの三尊は釈尊という完成された存在をあえて、平等の智慧、空の世界を象徴した文殊菩薩と、差別の智慧、用(はた)らきの象徴普賢菩薩に分けたものです。体(たい)である文殊、用(ゆう)である普賢。これが即の関係にある。体(たい)即用(ゆう)、何もない本体がそのまま用(はた)らく。それを体現したのが中心の釈尊です。
我々が日常誦んでいる般若経典に金剛経というものがあります。これは空という言葉を使わずに空の世界を説いた経典です。例えばこういう説き方をします。世界は世界に非(あら)ず、これを世界と名づくと。世界は世界ではない、それを世界と名付けている。今日の則ならば竹箆は竹箆に非ず、これを竹箆と名づく。竹箆は竹箆ではない、それを竹箆と名付ける。一度禅定で天地と一体になる、世界は世界に非ずの処です。その天地と我と一体、万物と我と同根という境涯の裏付けのもとにこの相対世界に戻って来る。世界は世界に非ずと三昧に入り、それを裏付けにそれを世界と名づける。空の裏付けにおける色の世界。世界は世界に非ず、これを世界と名づく。竹箆は竹箆に非ず、これを竹箆と名づく。
無門曰く,喚んで竹篦と作さば則ち触る。喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。有語することを得ず,無語することを得ず。速やかに道え,速やかに道え。竹箆と呼んでも駄目、竹箆と呼ばなくてもいかん。語れば誤るからと黙ってもいけない。そこで詰め寄る、さあ言ってみろ。皆さんのあれやこれやの思い、言葉、概念、理屈、分別。それを一度きれいさっぱり無くして、まっさらになった自分の一言。
私たちが言葉を使うのは、それが便利な約束事だからです。赤信号は止まれ、青は渡れ。宇宙の法則にこんなものはありません。ただの人間の約束事です。だから犬猫は飛び出して撥ねられてしまう。言葉というのは約束事の集まりです。その言葉に引っ掛からない。烏は黒い、鷺は白い。べつに烏は自分が黒いとは思っていません。鷺も自分は白いなどと思っていません。どちらも人間の約束事、ただの言葉です。
丸山圭三郎という方が、犬と野犬と山犬と狼では何が違うか、これは人間の言葉により分節されただけの同じものである、と言っています。もともと犬なんていう動物はいなかった。皆狼だった。それを飼い慣らしたのが犬。逃げ出して生きているのが野犬。それが集まって群れたのが山犬。しかし元はみな狼です。同じものが言葉で分かれてしまう。そうは言ってもチワワを狼とも呼べない。さて、この短い平らな竹の棒、これをなんと呼ぶか。
この私、政栄宗禅。でも昔は堅一と呼ばれていました。正式な場所では卓道和尚と呼ばれます。ある時は霊樹和尚とも呼ばれる。しかし皆同じ私のことです。世間の都合、約束事で名前が変わる。竹箆と呼ぶのも約束事です。この言葉という約束事を離れてこれを何と呼ぶか。
頌に曰く、 竹篦を拈起して,殺活の令を行ず。背触交馳す,仏祖も命を乞う。この首山和尚もこの竹箆の問いで見性しています。ぎりぎりのやり取りです。仏も祖師も言葉では表せません。ここは皆さん各人に苦労していただくところです。