第三十九則 雲門話墮(うんもんわだ)
2016-01-21
三十九 雲門話墮(うんもんわだ)
雲門(うんもん)、因(ちな)みに僧問う、光明(こうみょう)寂照(じゃくしょう)遍(へん)河沙(がしゃ)。一句未だ絶えざるに門遽(にわか)に曰く、豈(あ)に是れ張拙(ちょうせつ)秀才が語にあらずや。僧云く、是(ぜ)。門云く、話墮(わだ)せり。後来(こうらい)、死心(ししん)拈じて云く、且(しばら)く道(い)え、那裏(なり)か是れ者(こ)の僧話墮の処。
無門曰く、若(も)し者裏(じゃり)に向かって雲門の用処(ゆうじょ)孤危(こき)、者(こ)の僧甚(なん)に因(よ)ってか話墮すと見得(けんとく)せば、人天の与(ため)に師と為(な)るに堪えん。若(も)し也た未だ明めずんば、自救(じぐ)不了(ふりょう)。
頌(じゅ)に曰く,
急流に釣りを垂る 餌(え)を貪る者は著(つ)く。
口縫纔(こうぼうわず)に開かば 性命(せいめい)喪却(そうきゃく)せん。
雲門和尚に修行僧が質問した。太陽の光は寂(しず)かにガンジス川の砂の数が如き無限の大地を照らす。その言葉が終わる前に雲門が急に,おいそれは張拙秀才の言葉ではないかと言った。修行僧は,はいそうですと答えた。そこで雲門が云わく,言葉に堕(お)ちた。後年,死心禅師がこの言葉を取り上げて,この修行僧のどこが言葉に堕ちてしまった処か答えてみよと。
そこを無門和尚が評して言うには,もしこの雲門の用(はたら)きの孤高さが判り,この修行僧の言葉に堕ちた処がはっきりと判れば,人間や神々の師となることができるであろう。そこが判らないようであれば,自分一人も救えない。
これを漢詩で詠って,急流に釣り針が垂れている。餌(えさ)を貪るものは釣られてしまう。少しでも言葉にしようとすれば,大切なものを失ってしまう。
光明寂照遍河沙。これは後に出てくる張拙が見性したときの言葉の最初に一句です。太陽の光が寂(しず)かに遍く照らす。河沙とはインダス川の砂ということ。無限を形容しています。陽光は選り好みをせずに無限の天地を照らす。
光明,太陽の光。これをプリズムに通すと透明だった光が色のグラデーションに分かれます。何も無いものが無限に分かれる。これが私たちの様子です。私たちは元来何もない空の世界に生きています。空というのは無いとも言えませんが,まあ無いで。何も無いものが人間というプリズムを通すと,世界がこう展開します。この分かれてしまった世界,これを元の何もない光に還す。これが坐禅です。無字の境涯です。ここには何も無い,無いということも無い。この無が分かれて世界と自分になる。主観と客観が分かれる。これを元の光に,元の無字に還す。
光明寂照遍河沙。一句未だ絶えざるに門遽に曰く、豈に是れ張拙秀才が語にあらずや。僧云く、是。門云く、話墮せり。この張拙居士という方は,石(せき)霜(そう)禅師に参禅した高官です。その方の言葉を持ってきて,陽光は遍く無限の天地を照らす。こう質問を始めるとそれを遮って,それは張拙秀才の言葉ではないかと。はいそうです。言葉に堕ちた。言葉に執らわれたと。
たとえば仏心とか仏性とかいう言葉。私たちは皆生まれながら仏心仏性を持っていると言えば,有るという言葉に執らわれてしまう。いや仏心仏性とは,有るとか無いとかのあり方で有るわけでは無い。そう言うと今度は無いという言葉に執らわれてしまう。有と言えば有に,無と言えば無に執らわれてしまう。これが話堕の処です。言葉に執らわれてしまう。
後来、死心拈じて云く、且く道え、那裏か是れ者の僧話墮の処。この話堕の問答を後に死心禅師が取り上げた。この修行僧のどこが言葉に執らわれているか。
事実は私たちがあれこれ思う以前にすでにこうあります。私たちの思いを離れてあります。しかしそれを私たちは思いで捉えてしまう。三昧とは正受(しょうじゅ)ということです。そのまま受け取る。思いを離れて受け取る。しかし言葉を持つ人間は,この事態を言葉の網の目を通してしか受け取ることが出来ない。そこが話堕の処です。
私たちの六根の用(はたら)きは本来は直感です。見たり聞いたりする体験は直感の体験です。直感とは何かぴんと来ると言うことではなく,直接体験のことです。直接体験にあっては,見る自分と見られる対象の違いがありません。聞く自分と聞かれる対象が一つになっています。言葉でああこうではなく,見る時は思いなく直に見る,聞く時は思いなく直に聞く。言葉を挟まずに直接見聞きする。それを直感と言います。この直感の深みで気付く。
無門曰く、若し者裏に向かって雲門の用処孤危、者の僧甚に因ってか話墮すと見得せば、人天の与に師と為るに堪えん。若し也た未だ明めずんば、自救不了。雲門の孤高の用(はたら)き,そして修行僧が言葉に堕ちた処が判れば,人間のみならず神々にも説法する力を得る。判らなければ己すら救えない。
この雲門禅師は脚を折られて,その激痛の中に悟った。倶底和尚のところの小僧は,こう竪てた指をすぱっと切られて,あたたた・・と悟った。我々臨済宗中興の白隠禅師は,飯山の村を托鉢中農家の老婆に竹箒で溝にたたき落されて,人事不省,その後気が付いた時に大悟した。これらの禅僧の見性の端的に言葉は全く関わっていません。
私の得度の師,白山道場の小池心叟(しんそう)老師は京都の建仁寺で修行なさった。ある日僧堂の境内を歩いていたところ,崖際にやぶ椿が咲いていた。部屋に一輪飾ろうと思って手を伸ばしたところで脚を滑らせ,頭を打ちながら数メートル落ちたそうです。白山の老師はその後,こう目は開いていたそうです。ただ思いが全く用(はたら)かない。鳥が囀る,天が輝く,雲が流れる。ただ思いが用(はたら)かない。そこには言葉が全く関わらない。頭の痛さで我に返った時にガラリと悟ったそうです。
思いを用(はたら)かせずに見る。自己を離れて聞く。直に見て直に聞く。直感,直接体験。そこではっきりと気付く。言葉の入る余地は全くありません。禅僧の体験は話堕から遠く離れたものです。
急流に釣りを垂る。餌を貪る者は著く。口縫纔に開かば, 性命喪却せん。あちらにもこちらにも,言葉の針が垂れています。人はすぐに引っかかる。言葉だけではなく,いろいろな餌を貪る。財産,地位,名誉。この本来仏である自分を他人と比べて,あれが欲しい,ああなりたいと。
この霊樹院には檀家がありません。たぶん東京の禅寺では一番貧乏。だから今日も横浜の寺院の手伝いをしてきました。そのお金で布教活動をしている。修行さえ終えていれば,金がなくても布教は出来ます。この小庵で十分活動が出来ます。我々は駄馬のように財産や学歴や名誉や地位,そんな荷物を担いでいます。それを皆放り出してしまう。「涼しさや,荷を降ろしたる裸馬」。そういった境涯。そうじゃないと,うまそうな餌があると引っかかる。餌を貪る者は著く。言葉を追いかけているとすぐにつり上げられてしまう。言葉でああこうすると,大切なものが死んでしまう。
私たちのこの命はまあどうでもいい。我々が死んでも我々は滅することはありません。これは浄土真宗の清沢満之という方の言葉。我々は死にます。百年後には,ここにいる誰一人残っていない。しかし我々は滅することはない。我々をやっているものが,人形遣いが人形を動かすように我々を遣っているものがあります。坐禅で以てとって返して,光の処に一度還ってみる。すると大きなものが我々をやっていることに気付きます。それが我々の主人公であり,父母未生以前の本来の面目です。