第三十七則 庭前柏樹(ていぜんはくじゅ)

語録提唱

第三十七則 庭前柏樹(ていぜんはくじゅ)

2015-12-23

三十七 庭前柏樹

趙州(じょうしゅう),因みに僧問う,如何(いか)なるか是れ祖師(そし)西来(せいらい)意(い)。州云く,庭前の柏樹子。

無門曰く,若(も)し趙州の答処(たっしょ)に向かって見得して親切ならば,前に釈迦無く後(しりえ)に弥勒無し。

  頌(じゅ)に曰く

言(げん)事(じ)を展(の)ぶること無く,語,機に投ぜず。

言を承(う)くる者は喪(そう),句に滞(とどこお)る者は迷う。

 

庭先のビャクシンの樹という則です。趙州和尚にある時修行僧が質問をした。達磨大師がはるばるインドからいらしたのは,何を伝えようとしたのでしょうか。趙州がそれに答えて曰く,庭先のビャクシンの樹。

そこを無門和尚が評して言うには,もし趙州の答えたところがハッキリと判ったならば,釈迦もなく,弥勒もおらん。

そこを漢詩に詠って曰く,言葉は真実,事実を伝えない。言語は自在な働きに導かない。言葉に迷うものは身を滅ぼし,言句に滞る者は迷う。

趙州,因みに僧問う,如何なるか是れ祖師西来意。州云く,庭前の柏樹子。達磨さんは何のために,一体何を伝えたくてインドから来たのか。これは仏とは何か,心とは何かという問と同じで,仏法ギリギリの所を問う質問です。それに趙州和尚が答えて曰く,庭前の柏樹子。その修行僧と問答している庭先に,ビャクシンの樹があったんでしょう。庭先のビャクシン,と。

鎌倉の建長寺に大きなビャクシンの樹があります。一番大きいので修行僧三人で囲う位の樹があります。柏の木ではなくビャクシン。和名をイブキと言います。ねじれたような,大地から息吹くように生えた樹です。趙州和尚が答えて言うには庭先のビャクシン,庭先のイブキの樹である。

これは趙州録に載っているものを,無門慧開禅師がこの無門関に持ってきたわけですが,後半が抜けています。趙州が庭先のビャクシンであると答えた後,この修行僧が和尚境(きょう)をもって答える事なかれと言っています。境というのは対象です,外にあるもの。私はそんな対象を尋ねているわけではありません。趙州和尚は,わしは境で答えはしないと言った。そこで修行僧が再び,如何なるか是れ祖師西来意と問うと,趙州は同じく庭前の柏樹子と答えています。境,対象ではない。ここは趙州和尚とビャクシンが一体になった境涯です。

皆さんは一日中,何かを見たり聞いたりしています。その見ている,聞いているという事態。これは一体になった状態です。それを皆さんの頭が分別して,自分が,世界を,見ている。音を,聞いている,と分けてしまう。それを元に戻す。一体の境地で見聞覚知する。庭前の柏樹子。大三昧のところです。成りきったところです。自分がそのまま柏樹子です。

これを理屈でいえば主客未分。主観と客観が分かれる前の消息です。皆さんは分かれた後の状態にある。自分があって,世界がある。この自分と世界が分かれる以前。あるいは自他不二。自分と世界が二つになる以前の境涯です。

無門曰く,若し趙州の答処に向かって見得して親切ならば,前に釈迦無く後に弥勒無し。この庭前の柏樹子の消息がハッキリと分かったならば,釈尊に何か尋ねる必要もない。未来に現れる弥勒菩薩を待つ必要もない。過去を断じ,未来を断じる。そして今目前の事態と自分が一つになる。

数息観で数と自分が一つになる。随息観で呼吸に成りきる。無字で無に成りきる。ここで大切なことは,数も呼吸も無字も,外から眺めていては成りきれないということです。その流れを外からは見つめていては徹する事ができません。そこで数や呼吸を見つめずに,それに乗ってしまう。そうすると常に今,今,今。これを前後際断と言います。過去のことを前際,未来を後際といいます。その前後際を断つ。未来を断ち過去を断つ。そうすると今,今,今。即今ここだけです。

数息観をやってうまく数えられない。どうしてもあれこれ考えてしまって数をうまく数えられない。数を見ているからです。外から数を見つめてひとーつ,ふたーつとやっても,いつまでたっても埒があかない。数という流れにすっと乗ってしまう。外から眺めずに,内側からこうやる。すっと乗ってしまう。そうすると時間が止まってしまいます。そこにあるのは絶対の現在だけ。その現在が平行移動する。まあ,体験してみてください。

頌に曰く,言,事を展ぶること無く,語,機に投ぜず。

言を承くる者は喪し,句に滞る者は迷う。いくら言葉を費やしても,事実は伝えられない。火という言葉,炎という言葉を使っても口が焼けることはない。それがマッチの火ひとつでアツッ。言葉はどうしても事実に届かない。語,機に投ぜず。この機(き)という言葉,これはとても大切な言葉です。これは「はたらき」という言葉です。禅では「機(はたら)き」,「用(はたら)き」というものをとても大切にします。無心の機き,何も思うことなくすっと機き出す。用とか機と言う字が出てきたら,これははたらきという風に捉えてください。

己無く機(はたら)くところです。見る自分もなく,見られる対象もなくただ見る。聞く自分もなく,聞かれる音もなくただ聞く。それは見ながら見ない,聞きながら聞かない境涯です。見つぶれている,聞きつぶれている。無心の機き,無作(むさ)の妙用(みょうゆう)。

言を承くる者は喪し。禅の悟りとはこうである。達磨さんはこう仰っている,臨済禅師はああ仰っている。いくら言葉を追いかけても届きません。

句に滞る者は迷う。人間はどうしても言葉に引っかかってしまう。仏心と言えば仏心という言葉にとらわれ,無と言えば無という言葉にとらわれてしまう。なんでもそうです。どんな立派なものでも掴んだら放してください。坐禅というのは放す稽古です。あれこれの思い,良いとか悪いとかの価値観,分別心。何でも私たちの心はすぐ掴んでしまう。善を掴み,悪を掴み,損を掴み,得を掴む。何か掴んだらその心の手をパっと放す。

空とか無心とかというのは何もない状態ではなく,心が滞りなく流れている状態です。大切なのは心の手を放すことです。滞っている自分の心を清流のように流すことです。私たちは,せっかくきれいに流れている川に手を入れて堰をつくって止めてしまう。その手を引き上げて,サーっと流す。

坐禅中何が出てきても構いません。埒もない思いが次から次へと出てきます。それで構いませんから,出てくる思いを掴まない。出るに任せて流してしまう。それが無心です。滞らない心です。

この柏樹子の則は簡単にはいかない則で,妙心寺開山の関山慧玄大師は,柏樹子の話に賊機ありと仰った。盗賊の機(はたら)き。皆さんから何もかも奪い取ってしまう。自分の体も心も,過去も未来も,この宇宙も全て,庭前の柏樹子に奪い取られてしまう。

一つになるとか,三昧になるとか,成りきるとか,徹底するとか,まあいろいろ言いますけれども,みなさんはすでにそういう姿でここにあります。ただそれに気付かないだけです。「晴れて良し 曇りても良し富士の山 元の姿は変わらざりけり」。晴れていても,曇っていてもどっちでも良い。富士山というものはそこにある。あれこれの分別,止まることのない妄想の向こうにも,仏心仏性というものが厳然としてあります。ただ雲がかかっているからそれに気が付けない。気が付けなくてもそれはあるわけです。放っておいてもいいんですが,そこに気が付こうと思ったならば,その雲を払う努力が必要です。雲を払うやり方は,今日ずっとお話ししてきた通りです。