第三十六則 路逢達道(ろほうたつどう)

語録提唱

第三十六則 路逢達道(ろほうたつどう)

2015-12-23

三十六 路逢達道

 曰く,路に達道の人に逢わば,語黙(ごもく)を将(も)って対せざれ,且(しばら)く道(い)え,甚麼(なに)を将ってか対せん

無門曰く,若(も)し者裏(じゃり)に向かって対得して親切ならば,妨げず慶快なることを。其れ或いは未だ然らずんば,也(ま)た須(すべか)らく一切処に眼を著くべし

 頌(じゅ)曰く,

路に達道の人に逢わば,語默を将って対せざれ。

攔腮(らんさい)劈面(へきめん)に拳す,直下に会せば便ち会せよ。

五祖法演禅師が修行僧達に言うには,道に達した人に出会ったならば,言葉や沈黙で相対してはならない。さて何をもって相対したら良かろうか。

そこを無門和尚が評して曰く,ここのところが判れば,実に慶快なことである。もし判らなければ,全ての時,全ての場所で足下に眼を定めよ。

そこを詩で詠って曰く,もし道に達した人に会ったならば,言語や沈黙をもって相対してはならない。横っ面に一撃を与える。さあここで気が付きなさい。

  五祖曰く,路に達道の人に逢わば,語黙を将って対せざれ,且く道え,甚麼を将ってか対せん。達人に出会ったら言葉や沈黙で対してはならない。このところ言葉というものがどれくらい私たちの本質に届かないか,そういった公案が続いています。言葉を離れた境地,言語を離れた境涯で対さなければならないということですが,ではどのように言葉を離れて対するのか。これが本則です。

この言葉というものは私たちの本質である仏心,仏性にどうしても届きません。言語の一番の弱点は,語っている主体を語れないことです。私たちのこの眼玉は何でも見ますが,眼玉自身を見ることは出来ません。正宗の名刀は何でも斬ることが出来ますが,振り返って刀自ら刀を斬ることは出来ません。同様に言葉というものは,何が語っているのか,この主体は誰なのかを語れません。語っているそれがそうなので,振り返れないのです。

この主体を禅では,本来の面目とか,主人公とかいろいろな言い方をします。今何が見ているか,何が聞いているか,何が考えているか,何が感じているか。振り返って見ることは出来ません。しかしそれに成ることはできる。すでに成っている。それに直にお目に掛かっていただくためにこういった問題を設けているわけです。

いろいろな世界に達道の人がいらっしゃいます。この禅の世界でも見性も明らかな,悟後の修行もじっくり行った達道の人が時々います。しかし,それだけではありません。今は桜も終わってハナミズキがきれいに咲いています。そういう花に出会う。路に達道の人に逢う。どのようにその花に対するか。語黙を将って対せざれ。ああきれいな花だなあ。鳥がチュンチュンと鳴いている。鳥の鳴くに会う。語黙を将って対せざれ。さあ,どのように対するか。

もう何年か前ですが,今は亡き人間国宝の,今藤流の今藤綾子さんという方にお会いしました。楽屋見舞いに歌舞伎座にお邪魔ました。あの当時で九十二,三歳だったでしょうか。もうお一人ではうまく歩けない。そこでこう,舞台に抱かれるようにして連れて行かれるんですが,座ったとたんにしゃんと腰が立って,すっと曲の中に溶け入ってしまう。今日は拝見させていただきますと挨拶すると,まあ和尚さんどうも,どうも。大きな会ですから,周りはぴりぴりしている中で,お一人だけすとんと抜けていらした。路に達道の人に逢う。

この近所に有名な三毛猫で,花子さんという猫がいる。道すがらみんなが,花子さーんと声をかける。愛想のいい猫で,名前を呼ぶのは自分を知っている人間だからと,必ずニャーニャーと返事をしてくれる。名前を呼ばないと知らんぷりをしている。路に達道の人に逢わば,語黙を将って対せざれ。どのように対するか。花子さーん。ニャーニャー。

近所のおばあさんに道で会う。今日はちょっと冷え込みましたねえ。本当にねえ。それは言葉じゃないかと思われるかも知れませんが,私が,政栄宗禅という人間が語ってしまえば言葉です。私無くお寒うございます。今日はいい天気でございます。己無く語る。これは語っておりません。

谷中に全生庵という寺があります。明治に山岡鉄舟が建てた寺です。あの山岡鉄舟は剣と同じくらい真剣に坐禅に取り組んだ方で,大変な境涯に達していた。その鉄舟居士は無刀流という流派を開かれた。刀がない。もちろん刀を振るわけです。ただ己無く剣を振る。刀が消えてしまう。己が消えてしまう。勝手な想像ですが,そういった境涯ではないかと思っています。有って無い。山岡鉄舟と相対した人は,その剣はのそのそしていた,と語ったそうです。路に達道の人に逢わば,語黙を将って対せざれ。そんな抜けきった境涯の方にどう対するか。

ツツジの花がぼちぼち咲き始めました。路に達道の人に逢う。きれいだなあ。己無く思う,己無く感じる。自分が感じたらダメです。自己が出てきたら壊れてしまう。己無く,あーきれいだなー。こういうところです。

無門曰く,若し者裏に向かって対得して親切ならば,妨げず慶快なることを。其れ或いは未だ然らずんば,也た須らく一切処に眼を著くべし。今回の則も解釈を拒む則です。言葉を拒否しています。ここのところがハッキリと判れば,誠に愉快なことである。もし判らないようであれば,朝から晩まで全ての所に眼を付けよ。

我々の日常の用(はたら)き,あたりまえな行為。朝起きる。家族がいる。おはようございます。ああ,おはよう。洗面所に行く,顔を洗い歯を磨き,朝飯をいただいて,それぞれの仕事なり学業なりに出ていく。無心の用きです。その一つ一つの行為。

私たちは今やっていること以外何もやっていません。何も出来ません。今はこう,私の声が聞こえている。これが皆さんの今の有りようです。私たちは自分はどこから来たのか。自分とは何か。自分は一体どこへ行くのか。こういったことに迷います。それを知りたければ,現実に立ち戻ってください。事実に戻って下さい。一切処に眼を著くべし。ああこう頭で考えてもしょうがない。

私が木を打てば,皆さんああこうもなくカチカチとなってしまう。皆さんという鏡に音が映る。皆さんという鏡に私の声が映る。私の姿が映る。本堂が映る。もう,ころっとそうなってしまう。これが,今,ここ,自分の有りようです。皆さんは今ここにしか有りません。その今ここの足下に光を当てる。今ここの足下に焦点を当てて,そして今ここの有り様を一つ一つ丁寧にやっていく。一切処に眼を著くべし。

そうすると今に自分をおさめる力,ここに自分を集中する力がつく。これを定力といいます。禅定の力です。今の足下に,今やっている事にすっと入れる。仕事をする時は,その仕事と自分が一体になる。仕事の中に自分が消え去る。花を見たら,その花と自分が一体になる。音を聞いたら,音と自分が一枚になって,その音の中に自己が消え去ってしまう。そのためには,今のこの足下に自分をおさめる。今やっているここ,この手元に集中して自分を用(はたら)かせる。そういったことをくり返しくり返し。一切処に眼を著くべし。

頌(じゅ)曰く, 路に達道の人に逢わば,語默を将って対せざれ。

攔腮劈面に拳す,直下に会せば便ち会せよ。そこを詩に詠って言うには,路に達道の人に逢わば,語黙を将って対せざれ。もう言葉の置きようがないので本則をそのままおいています。私たちは必ず,親の死に目に会う。そして我々も病に会う。そしていずれ死に会う。路に達道の人に逢わば,語黙を将って対せざれ。どのように対するか。生老病死の問題に何か特別な抜け道はありません。直にそれに会う。己無く直にそれに会う。攔腮劈面に拳す。これは横っ面にビシャー,とやると言うことです。直下に会せば便ち会せよ。無門和尚,ここで気が付いてくれと。

この我々の本質,この仏心仏性というものは,振り返って見ることが出来ません。空を飛んでいる鳥は,自分の羽というものを知りません。多分知らない。知らないけれども飛んでいる。みなさんも,皆さんの中にある仏心仏性,これに気が付かない。しかし,それが今こう生き生きと用(はたら)いている。私の声を聞いている。テキストを見ている。脚が痛いなあと感じている。気が付かなくても,知らなくても既に用(はたら)いています。それは振り返っても判りません。また遠くを眺めても判りません。自分を今ここの足下におさめてください。はっと気が付く時があります。遠くを眺めてもだめ,自分の中を探し回ってもだめ。

無心,無念無想というのは空っぽな状態ではありません。いろいろな思いが有ってもいいのです。ただその出てくるものに執われない。引っかからない。心はすーっと清流のように流す。それを堰き止めようとしてはだめです。心に湧くあれこれに手を出さない,それを止めない,掴まない。掴んだら放す。そういう工夫をしていただければと思います。