伝心法要 第十八

語録提唱

伝心法要 第十八

2017-05-17

凡夫は皆境を遂うて心を生じ、心遂に忻(ごん)厭(おん)す。若し無みせんと欲せば、当に其の心を忘ずべし。心忘ずれば即ち境は空なり。境空ならば即ち心滅す。若し心を忘ぜずして、但、境のみを除かんとせば、境は除くべからず。祇、益々紛擾せん。故に萬法唯心、心亦不可得なり。復何をか求めんや。般若を学する人は一法の得べき有るを見ず。意を三乗に絶し、唯一真実にして、証得すべからずとす。我能く証し能く得ると謂うは皆増上慢の人、法華会上衣を払って去りし者は皆斯の徒なり。故に仏言く、我菩提に於いて実に所得無しと。黙契するのみ。

 

9月1日の説法の続きです。

凡夫は皆境を遂うて心を生じ、心遂に忻厭す。

凡夫、我われの事です。境というのは、この客観世界です。主観のことを能と言います。客観のことを所と言います。能と所。この所が境です。まあ客観世界とか対象物とか、そのように思ってください。我われは皆、客観世界にとらわれて、心を生じ、この場合の心は、意識とか分別心とか、そういうふうにとらえていただきたい。我われは対象世界にとらわれて、意識分別心を生じて、心遂に忻厭す。その意識分別心はついに喜びや厭離、好きだ嫌いだと、相対世界に堕してしまう。

若し無みせんと欲せば、当に其の心を忘ずべし。

もし、この相対世界を絶対世界に戻そうと欲せば、あるいはこの境を無くそうと、客観世界を無くそうとするならば、当に其の心を忘ずべし。自分に取って返して、この意識分別心を離れるべきである。

心忘ずれば即ち境は空なり。

この分別の心が無くなれば、これらの境はすべて空になる。

境空ならば即ち心滅す。

この対象の世界が空になれば、この意識、分別心は無くなる。

この伝心法要は、心の使い方がとても難しい。ある時は真理として使い、ある時は意識、妄想、分別というように使いますが、もとは同じです。ここがわかりにくいところ。少しここに来てこの心が近づいてきた。意識と仏心。分別心と無心。ただ一心の裏表です。

若し心を忘ぜずして、但、境のみを除かんとせば、境は除くべからず。

意識分別を忘ずることをせずに、ただこの対象世界のみを除かんとすれば、対象世界は除くことはできない。

祇、益々紛擾せん。

ますます混乱してしまう。私たちのこの意識、この意識の発生が、この存在の発生です。私たちの意識の分節が、分別が、存在を分節、分別します。意識分節と、存在分節は、同じことであり、同時に起こります。あ、ロウソクだ。と意識が世界からロウソクを分別すれば、そこにロウソクという存在が現れます。意識の分別と、存在の現成は、同じことです。

故に萬法唯心、心亦不可得なり。

故に、萬法、すべての存在ということです。それはただ心である。心がある、そして皆さんがあれやこれやと思う。そうするとこの心が、意識分別心になってしまう。我々が、三昧を法得すれば、心になる。仏心になる。無心になる。ただ一心。その仏心は不可得である。得ることができない。知ることができない。感じることもできない。目は目を見ることができない。刀は刀自身を切ることができない。心は心を知ることができない。感じることもできない。それがそのものだからです。復何をか求めんや。

ちょっと私は体を壊してしまって、足がうまく動かない。右手もだんだん動かんようになってる。しかしこれは、健康な私がいてそれが病んでいるのではない。これがこれ。年取ってくると、膝が痛い、腰が痛い。ある理想的な健康な、本来こうあるべき自分がいて、その自分が何かで膝を悪くしているのではない。足が痛い、膝が痛い、腰が痛い。それが自分である。そこに安住してください。ここはよく救急車、消防車が通る所です。うるさいと思った人、自分が音を聞いていると思っている。あれが、あの音が皆さんです。今も外で車の音が鳴っている。皆さんが聞いているんじゃない。あれが皆さん。

般若を学する人は一法の得べき有るを見ず。

般若というのは智慧ということです。悟りということ。智慧、悟りを学んでいる人、皆さんは、何も得るものがない。何かを得るということは、向こう側にあるものを持ってくるということです。本来健康である私が、病気を持って来てしまった。本来静かであるべき私が、救急車の音を持って来てしまった。そうじゃない。病気が自分、自分が鳴っている。得るようではだめです。

意を三乗に絶し。

声聞乗、縁覚乗、仏乗。いろいろに言いますが、その三乗にこの意識を絶し、

唯一真実にして、証得すべからずとす。

ただ一つの真実のみだけであって、何も得るものがない。

我能く証し能く得ると謂うは皆増上慢の人。

おれは悟った、私は見性した。増上慢。高慢ちきであると。確かに見性体験というのはあります。自分が世界と一体となり、何もなくなる。無いということも無くなる。ただ、いつまでたっても見性した自分が残っている。何かに気づいた自分が残っている。これは本当の悟りではない。これが難しい。しっかり座って、しっかり動中に、今ここ今ここと、ここへ、ここへ、ここへ、今、今、今ともっていけば、見性はできます。ただ、見性した自分が残ってしまう。これが難しい。こいつが始末におえん。おれは悟った。おれは見性した。おれは、おれは、おれは。

この縁起している世界で、縁起で渦巻いている世界で、自我だけなくせばいい。おれという思いだけなくしてください。そしてこの世界のうねりに、巻き込まれる。己なく巻き込まれる。そうするとすべてが自分になります。

法華会上衣を払って去りし者は皆斯の徒なり。

法華経の方便本に載っている、お釈迦さんがこれから不可思議の法を、考えることのできない法、得ることのできない法、それを説こうとしたとき、あ、もう自分はわかっていると、それならば自分は聞く必要がないといって五千人の人が席を立った。皆斯の徒なり。増上慢の人であると。自分がいる、自我がある、我見がある、おれがいる。

故に仏言く、我菩提に於いて実に所得なしと。

だから仏様はおっしゃた。自分は悟りにおいて、何も得ていないと。所得、悟りを外に見ている。悟りをこっちに持ってこようとしている。坐禅を組んで無心になって、悟りを開こう。本当の自分に気が付こう。悟りが向こうにある。

黙契するのみ。

三昧です。一枚です。一如です。それを直接体験してください。ここにこれをこのまま認める。このままある。皆さん不安を持っている。恐怖がある。苦しみがある。それを離れて、理想的な自分が苦しんでいるんじゃない。苦しんでいる自分がそれ。それを直接体験する。そこに収まる。黙契するのみ。