伝心法要 第三十六

語録提唱

伝心法要 第三十六

2018-04-9

問う、妄能く自心を障うと、未審(いぶかし)、今何を以ってか妄を遣らん。師云く、妄を起こし妄を遣るも亦妄を成ず。妄本根なし、祇、分別に因って有なり。汝但、凡聖の両処に於いて情尽きなば、自然に妄無けん。更に若(いか)為(ん)が他を遣らんと擬せん。都て纖毫の依執あること得ざるを名づけて我捨両臂(がしゃりょうひ)、必(ひつ)当(とう)得仏(とくぶつ)と為す。云く、既に依執無くんば、当に何をか相承すべき。師云く、心を以って心に伝う。

問う、妄能く自心を障うと、
妄見が自心を覆ってしまう。本当のことを覆ってしまう。
未審、今何を以ってか妄を遣らん。
それでは今何を以って妄見を追い払ったらよいのでしょうか。妄見が悟りの心を遮ってしまう、どうしたらよいでしょうか。
師云く、師云く、妄を起こし妄を遣るも亦妄を成ず。
初心者指導で毎回説明している追わず払わず。妄を起こしというのは追うということです。念を追う。妄を遣るということは払うということです。念を払う。
追わず払わずです。妄が起きても追わず払わず、囚われない。念が起きても無視をして、車窓の景色のようにさーっと流し去る。
妄見が起きたらどうしたらいいかと言う事は、誰もが考える。それを追うことも払うこともどとらも妄見である。これは囚われです。
何かあるように思う。たとえば自分、これがいるように思う。死んでしまった人はもういないと思っている。生死の分別、有無の相対性。考え、判断、解釈、分別。
言葉に迷わされてはいけません。言葉の分節はそのまま世界の分節になります。これが分別です。
これは譬えですが、それぞれに見える波は、全て海で出来ています。ここに三十数名の波が立っています。それぞれの波は、私、私、と考えています。しかし足下をよく見るとそこには同じ海があります。
何十年か前にオギャーと波立ち、何十年かざわつき、いずれスッと海に帰る。これが我々の生死です。生まれても海の水は増えない、死んでも減らない。
そもそも海が波立つ事は生まれたと言えるのか。波が消えた事を死と言えるのか。心経の不生不滅はこのあたりの事態を説いています。
海が波をやっている。仏が自分をやっている。
祇、分別に因って有なり。
生死、有無、善悪。すべて相対的に出来ています。一つのものの裏表です。ある言葉に出来ないものが分かれて、自他、生死、有無などに分かれます。分かれて見える存在を本来のところに戻すのが坐禅です。
汝但、凡聖の両処に於いて情尽きなば、自然に妄無けん。
君の凡聖に分かれた思いさえなくせば、自然に妄見はなくなる。
更に若為が他を遣らんと擬せん。
何とかする必要もない。ただ無心に成ればことは済みます。
都て纖毫の依執あること得ざるを名づけて我捨両臂、必当得仏と為す。
囚われ、こだわり、計らいの思いがなくなれば、我捨両臂、両腕がない。分かれていないということです。分別されていない。それが仏の境地です。
云く、既に依執無くんば、当に何をか相承すべき。
もし囚われ、こだわり、計らいの思いがなくなれば、
何をあなたは私に伝えようとしているにですか。何も伝えるものはないではありませんか。
師云く、心を以って心に伝う。
心を探しているそれが心です。だから成り切る。心が心に成る。見ようとせずに成る。それが心を以って心に伝うということです。