伝心法要 第三十一
2018-03-4
今時の人は、祇、多知多解を得んと欲して、広く文義を求むるを呼んで修行と作し、多知多解の翻って壅塞(ようそく)と成ることを知らず。唯、多く児に酥乳を与えて喫せしむることを知って、消と不消と都て総じて知らず。三乗の学道人は皆此れ此様なり。尽く食不消者と名づく。謂わゆる知解は消せずして皆毒薬と為り、尽く生滅の中に向かって取る。真如の中には都て此の事なし。故に云く、我王庫の内に是の如き刀無しと。
今お彼岸中ですから来客が多い。下で音が鳴る。外では車の音がする。横断歩道の音がする。あれを自分が外の音を聞いているという風に考える限り、座禅は埒があきません。皆さんが鳴っています。
自分と世界を分けない。もともと一つのものが自分になり、世界になります。それを元の一つに還す行為、これが座禅です。一つになるとなくなります。無いということも無い。ある一つのものが、有る、無いと分かれ、主観と客観に分かれ、生と死に分かれ、様々に分かれてこの世の中と展開します。これを元に戻す。
今時の人は、祇、多知多解を得んと欲して、広く文義を求むるを呼んで修行と作し。
無心とはどういう状態であるか、夢想無念とはどういう状態であるかここで分かろうとする。ここで考えても解決はしません。例えば有名な質問があります。両手で叩いて音がする。片手の音を聞いてこい。これはいくら考えても分かりません。片手の音。多知多解を得んと欲することをやめてください。
広く文義を求むるを呼んで修行と作し。
仏教の言葉をあれやこれやと覚えても何の役にも立ちません。
多知多解の翻って壅塞と成ることを知らず。
頭で考えたことがかえって皆さんの目を塞いでしまいます。ですから、考えんと成る。成るから成仏と言います。仏になるんです。このテキストで言えば心は見ることも、聞くことも、考えることもできない。仏を見ることも、聞くことも、考えることもできない。でも成ることはできる。そこで振り返ってはいけません。ただ聞く、ただ見る、ただ考える。いろいろな難しい言葉に振り回されんように気を付けてください。
唯、多く児に酥乳を与えて喫せしむることを知って、消と不消と都て総じて知らず。
子供に、赤ん坊に沢山お乳をやろうと、酥乳というのはヨーグルトと牛乳ということです。牛乳をたくさん飲ませてやろうとそう考えて、それが消化されたかされてないかを考えない。
三乗の学道人は皆此れ此様なり。
三乗の人はまあこんなもんであると。
尽く食不消者と名づく。
消化不良を起こしている。私の喋っていることをここで考えてしまうと、消化不良を起こしてしまうぞと黄檗禅師が言っている。まずは考えることをやめてください。考えて知ろうということをしない。毎回言う例えですが、目は何でも見ることはできるけれども、翻って目は目を見ることは出来ん。皆さんは自分の寝姿を見ることは出来ない。でも寝ることは出来る。だから見ずに、成る。心というのは何かと考えずに、ただ見たり聞いたり考えたり、働く。成る。そういうことです。
謂わゆる知解は消せずして皆毒薬と為り。
考えたことはそれがどんなに立派なことであっても、皆毒薬になってしまう。
尽く生滅の中に向かって取る。
生まれ変わり死に変わり、輪廻の世界に自分で行くようなものであると。ただ仏教というと生まれ変わり死に変わり、輪廻転生の教えだという誤解が蔓延しています。輪廻転生する魂がない、それを無我と言います。無我というのは魂がない。怒りが輪廻転生です。欲が輪廻転生です。欲しい惜しい憎い可愛い、これが輪廻転生です。輪廻転生は今ここ自分の中にあります。この魂、この霊魂というのは中々ややこしいものですが、皆有る有ると言うので、あえて無いと、本当は無いというものも無いのですが、あえて無いと言っておきます。
真如の中には都て此の事なし。
真如、真理とか悟りとかいうことだと思ってください。それは何かといえば、今私の声を聞いているそれです。何が聞いていますか?何が目の前のテキストを見ていますか?何が考えていますか?頭ではありませんよ。
故に云く、我王庫の内に是の如き刀無しと。
これはある経典の例えです。とにかく大事なことは、考えること、考えて分かったこと、そんなものはどれだけ立派そうに見えても大したことはない。
古いブラウン管でテレビを見ると、影から影がちょっとずれている。同じように自分から自分が少し外れている。それをチューニングし直して、元に戻す。自分を自分に重ねる。そして分かれてしまった自他を戻す。これが座禅です。茶礼で気楽にこの辺を少し話したいと思います。
今日はここまでといたします。