伝心法要③

語録提唱

伝心法要③

2021-09-18

心は虚空の如し、所以(ゆえ)に云く、仏の真法身は猶(な)お虚空の如しと。別に求むることを用いず。求むるあらば皆な苦なり。設使(たとい)恒沙劫に六度万行を行じて、仏の菩提を得んも、亦た究(く)竟(ぎょう)に非ず。何を以っての故に。因縁の造作に属するが為の故なり。因縁若(も)し尽きなば、還(ま)た無常に帰す。所以に云う、報化は真仏に非ず。亦た説法者に非ずと。但だ自心を識らば、我(が)無く人無く、本来是れ仏なり。

心は虚空のようである。だから、仏の真の姿、法身は、虚空のようであると言う。求める必要はない。求めれば苦しみとなる。たとえ長い時間六波羅蜜や多くの行を行じて悟りに至っても究極ではない。どうしてか。それは因縁をつくる行為だからである。因縁が尽きれば無常となる。だから報身や化身は本当の仏ではない。また真実を説くものではないと言う。己の心を知れば、本来是は仏である。

 

心は虚空の如し、所以に云く、仏の真法身は猶お虚空の如しと。

この目の前の虚空は、有るんでしょうか、無いんでしょうか。カラッポですが、カラッポが有るように見えます。有るようで無い。無いようで有ります。

この心も、こう働いていますが、探すとどこにも見つかりません。有るようで無い。無いようで有ります。不思議ですが、人間にはそう見えます。

別に求むることを用いず。求むるあらば皆な苦なり。

もうこのままで完全です。出来上がっています。元々、人間の手を入れる必要がありません。また、求めるということは、そこに求める自分がいます。本来いない自分が現れて、主観と客観世界が展開します。

設使恒沙劫に六度万行を行じて、仏の菩提を得んも、亦た究竟に非ず。

たとえ無限の時間六波羅蜜や多くの行を行じて、悟りを得ても究極とは言えない。六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つです。

何を以っての故に。因縁の造作に属するが為の故なり。因縁若し尽きなば、還た無常に帰す。

どうしてか。自分が行う行為は、自他に分かれた分別です。迷いです。

所以に云う、報化は真仏に非ず。亦た説法者に非ずと。

 報身も化身も方便を行じる姿です。人間には人間の分別で、分別を教えてくれますが、法身が、成り切ったところが本来の姿です。

 

中国北宋の詩人、蘇東坡は、長年坐禅の修行をした人でした。ある日、禅の師匠と歩いていると、路に観音様の石像が祀ってありました。その観音像は、数珠を持っていたので、「祈りの対象の観音様が、何を祈るのですか?」と師に質問しました。禅師は「観音が観音を祈るのだ」と答えました。とても難しい問答です。そのものがそのものをする、三昧のところです。

数珠を持った姿は、他者のための方便の姿で、報身であり化身です。祈りに成りきった姿が、本仏である法身です。

但だ自心を識らば、我無く人無く、本来是れ仏なり。

 この有るようで無い、無いようで有る心には、主観もなく客観もありません。我無く人の無いところです。それを仮に仏と言います。