伝心法要 第二十九

語録提唱

伝心法要 第二十九

2018-02-3

道に方所無きを大乗心と名づく。此の心は内外中間に在らず。実に方所無し。第一に知解を作すことを得ざれ。祇、是れ汝如今の情量の処を説くのみ。情量若し尽きなば、心に方所無し。此の道は天真にして本(もと)名字無し。祇、世人知らずして迷うて情中に在るが為に、所以に、諸仏出来して此の事を説破す。汝諸人の了せざるを恐れて、權(かり)に道と名を立つ。名を守って解を生ずべからず。故に云く、魚を得て筌(せん)を忘ずと。

道に方所無きを大乗心と名づく。
道というものには方向も無ければ、場所もない、これが大乗の心である。
此の心は内外中間に在らず。
心とは何かというのは、悟りとは何か、仏とは何か、本来の自分とは何かという質問と同じです。それを心といいますが、我々が普段あれやこれや考えている意識、分別心のことではありません。
この心というものは、どこをどう探しても見つからない。自分の内側にもない、もちろん外側にもない、中間にあるわけでもない。どこをどう探しても心というものは見つかりません。
しかし、こうころころと働いている。私の声が聞こえる。目の前のテキストが見える。これが心の働きです。どこをどう探しても見つからないけれどもこのように自由自在に働いている。これが心です。この心をどうやって見つけるか。この心とはどういうものか。この伝心法要ではこの心をあちらから説きこちらから説きしてくださっている。
実に方所無し。
この心はどちら方向にもなければ、どこの場所にもない。
第一に知解を作すことを得ざれ。
まず重要なのはこの心というのを解釈分別してはならないと。わからないんです。これ幾ら考えてもわからない。どうやっても見ることも聞くことも感じることもできない、この心というものは。でも、見ているのが心です。聞いているのが心です。感じているのが心です。
灯台は、なんでも照らすことが出来るけれども、灯台自体を照らすことはできない。心は何でも見ることも聞くことも考えることもできるけども、心それ自体を見ることはできない。だから、いつも言っているように見ずに、成る。見ずに成る。
祇、是れ汝如今の情量の処を説くのみ。
これは君の意識分別の所を説いているだけである。
情量若し尽きなば、心に方所無し。
意識、分別、判断、あれやこれや頭で考える。悟りとは何であろうか、仏とは何であろうか、心とは何であろうか。それをやめればいきなり心です。
昨日見た夢に出てきた人はどこへ行ったのでしょうかという質問、ばかばかしいことです。目が覚めればその人は生じてもいなければ滅してもいない。不生不滅。般若心経で説いている通りです。我々も生まれてもいません。滅することもありません。不生不滅です。もちろん、政榮宗禅というものはある時におぎゃあと生を受け、ある時に死ぬ。しかし、この心は、この心が本当の自分です。これは生まれていない、滅することもない。私が死んでも、心が滅することはない。不生不滅の仏心仏性。ここに眼をつけてください。
どこをどう探しても見つからない。見つからないけれど、この意識、分別、判断、これは心から生まれ出ています。ちょうど海が波立ったのが意識です。波は見ることが出来るけれども、海自体を我々は見ることが出来ない。波の奥にある海。心。波を通してその心とは何ぞや、心とは何ぞやと掘り下げる。
今聞こえるでしょう、これが波立ちです。やかましいと思った方は、自分と音を分けている。あれは皆さんが鳴った音です。心というものは波立ってみないとわからない。その波を通して突き詰める。
祇、世人知らずして迷うて情中に在るが為に、所以に、諸仏出来して此の事を説破す。
諸仏が生まれて、迷っている我々のために対機説法としてあえて説いてくださった。それを仮に道とか仏心仏性とか、いろいろ名付けている。
汝諸人の了せざるを恐れて、權に道と名を立つ。
道とはいくら考えてもそこには届きません。我々は自分の寝姿を見ることはできないけれど、寝ることはできる。寝姿を見ようとせずに、寝る。悟りの境涯を知ろうとせずに、成る。どこをどう探しても無い。けれどもこう働いている。金剛経というお経に、応に住する処無くして而もこの心を生ずべし、とあります。心というものは、どこにもないけれどもこう働いている。声が聞こえる、ものが見える、ものを考えることが出来る。
名を守って解を生ずべからず。
道だとか、悟りだとか、そんな名前に誤魔化されない。座禅を組むときは、とにかく思いで何とかしようとすることをやめてください。
故に云く、魚を得て筌を忘ずと。
筌とは、魚を獲る道具です。魚を獲ったらもう筌は必要ない。激流が私たちの目の前を流れている。迷いの川が我々の目の前を流れている。そこに、お釈迦様の教えという筏がある。それに乗って向こう岸へ渡ることが出来た。悟りの岸へたどり着くことが出来た。ああこりゃ有難い筏だと担いで回る。筏はもう必要ない。いつまでも担いで回らない。筏なんてその川に流してしまう。
今日はここまでといたします。