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今を生きる

2017-01-26

咲くも無心 散るも無心         
花は嘆かず 今を生きる
坂村真民さんの詩の一節です。私たちは過ぎた日々を後悔したり、自分の行く末を不安に思ったりして生きています。                  
しかし、過去は戻りません。未来はまだ来ていません。私たちが生きているのは、今だけです。
花のように無心に、今を精一杯生きましょう。 

怒りと憎しみ

2016-09-18

人間の感情の中で、特に苦しいものが、怒りと憎しみの感情です。
心の中にある怒りや憎しみにどう対処したら良いか?という質問を多くの方から受けます。
仏教では、その心の調え方をこう教えています。
怒りや憎しみの感情を素直に受容し、その変容を待つ。つまり、
・怒りや憎しみには、もともと実体がない。
・ちょうど鏡に映った姿のようである。
・心の鏡に怒りや憎しみが、映れば映ったまま、おこれば起こったまま、やめば止んだままにしておく。
・時とともに、心は静かで平安な状態に変わって行く。
時間のかかる大変な行為です。しかし、怒りや憎しみを抱いている相手の変化はまず望めません。自心を変える、これが仏の教えです。

お盆は、お釈迦様の弟子、目連尊者の故事に由来します。ある日、目連様が亡母の様子を神通力で見ると、亡母は地獄で苦しんでいました。驚いた目連様は、神通力の限りを尽くしましたが、どうしても救えません。
そこでお釈迦様に相談すると、厳しい夏の修行が終わる七月十五日に、修行僧たちに食事を供養するよう言われ、その通りにすると、亡母は天に生まれ変わったそうです。七月十五日は今ではお盆の明けの日に当たります。
お釈迦様は直接故人に供養するより、本当に修行している人を供養することが、故人の幸福につながると教えたのです。
洪福寺で、お盆・お施餓鬼に供養していただくお米は、全て建長寺の修行道場へ送ります。目連尊者にならい、日々厳しい修行に明け暮れている修行僧を供養することによって、先祖の冥福を願うことが、施餓鬼米の始まりです。 

自力と他力

2016-06-9

よく禅宗は自力、真宗は他力の宗教などといわれていますが、そんな簡単なものではありません。
本気で修行する者は、見性や回心の前に自力・他力の違いを超えます。
道元禅師は「自己を運びて万法を修証するは迷いなり、万法来たりて自己を修証するは悟りなり」と言っています。
悟りは向こうから来るのです。まさに他力の心境です。しかし、そうなる為には大変な修行が必要です。
自力の果てに他力にいたり、他力の裏づけには厳しい自力があります。

花祭り

2016-04-11

4月8日はお釈迦様の誕生日、降誕会です。花御堂に小さな誕生仏をおまつりして甘茶をかけて供養をします。
仏伝ではお釈迦様は生まれてすぐ立ち上がり、7歩歩いて「天上天下唯我独尊」(この世界で自分独り尊い)と叫んだと伝えられています。
しかし、そんな人間はいません。お釈迦様も「オギャー、オギャー」と産声を上げて生まれたのです。
その「オギャー、オギャー」を翻訳すると「天上天下唯我独尊」になります。
私たち禅宗では、坐禅により意識以前の世界に帰ります。その世界では自分と世界がまだ別れていません。自分が世界であり、全世界が自分です。
生まれたばかりの赤ん坊には、自我意識も世界の認識もありません。まさに全世界が自分、自他一如の世界、私たち禅僧が求める境地にいます。
全世界が自分である。これが「オギャー、オギャー」の産声であり「天上天下唯我独尊」の本当の意味です。

大いなる命

2016-03-31

大いなる ものに抱かれ ある事を
今朝吹く風の 涼しさに知る 
昭和の名僧、山田無文老師の歌です。

大いなるもの、大いなる命。
私たちはそこから生まれ、
それに支えられて生き、
やがてはそこへ帰ってゆく。
仏教では人間の生死をそのように教えています。

この大いなるものを、坐禅によって直覚してください。

観音菩薩は慈悲の心を象徴した仏様です。慈悲心がお姿を持ったのが観音様です。

さて慈悲心とは何でしょうか。それは共感する心のことです。他人の喜びをともに喜び、他人の悲しみをともに悲しむ心。例えれば、病気の子供の苦しみを我がことのように苦しみ、子供の喜びを我がことのように喜ぶ母親の心、それが慈悲心です。

観音様は、その母親のような心で、すべての生命を見つめています。

お彼岸と中道

2015-09-23

今日はお彼岸の中日です。たくさんの檀家さんのお参りがありました。

このお彼岸は、日本だけの仏教行事です。昼夜の時間が同じという事から

「中道」を象徴したものだと考えられます。

さて、中道とは何でしょうか?

私たちは、分別の心で世界を二つに分けてしまいます。

善と悪、損と得、生と死、有と無、自分と世界・・・と、すべてのことを相対的に捕らえるのが迷いです。

そのどちらにも囚われない境地が中道です。

そのために禅宗では坐禅を組みます。坐禅で自己の忘じ去り、天地と一体の境地になる。

天地と我と同根、万物と我と一体。この境地が本当の「彼岸」であり「中道」です。