「一口法話」一覧
食事五観の偈
2019-06-9
五観の偈
一には功の多少を計り彼の来処を計る。
第一には、この食事がここに来るまでに、どれだけの人や自然の力をいただいたか、よく考えます。
この一椀のご飯も、大地の恵み、水の恩恵、光が降りそそいで、やっとお米ができます。もちろん農家の力をかり、それが運送され、お米屋さんが精米してくれます。最後にそれを調理してくれる人が居ます。それらの人や自然の恵みでこの一杯のご飯がここにあります。これはすごい事です。あだやおろそかには出来ません。
二には己が徳行の全闕(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず。
第二には、果たして自分にこの食事を頂くだけの徳があるだろうか。
私たちは、自分のお金で買った物は、自分のものだと、どう使おうと勝手だと思っています。コンビニのおにぎりなどは、百数十円で買えます。あれだけの人の手を煩わせながら、それをお金で数えます。しかし、禅寺ではそれを自分の徳で数える。はたして自分にそれだけの徳があるかどうかと。
三には心を防ぎ過貧等(とがとんとう)を離るヽを宗とす。
第三には、心を守って、貪りなどから離れます。
まず禅寺では好き嫌いを言わない。美味い不味いを言わない。出してもらったものを、ありがたく頂く。やれこの食材はどこそこの物だの、少し固いの柔らかいのとも言いません。それは貪りになります。
四には正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。
第四には、食事は薬と同じである。修行する体を守り、健全な精神を維持する為のものである。
美味しいものの食べすぎで、体を壊しては、本末顛倒です。程よいものを、程よく頂く。腹も身のうちです。質素なものを腹八分目。ただ道場では、ものが残せない。全部ありがたく頂く。信者さんの家に行くと、食べきれないほどのご馳走が並んでいる時が有ります。始めてのことですが、今の禅僧は食べ物を残します。もちろん食べない皿にははじめから手をつけません。豊かになった時代には、こういうことも起こる。
五には道業を成(じょう)せんが為めに当(まさ)に此の食(じき)を受くべし。
第五には、仏道を成就する為にこの食事をいただきます。
食べる為に働くのか、働く為に食べるのか、という質問が有ります。食べる為に坊さんをしているのか、修行する為に食べるのか。修行する為に食べるのにきまっています。坊さんは飯拾いの方法ではない。そして最後には仏道を成就したい。これが僧侶の誓願です。
この五つを修行道場では、食事の前に毎日読んでいます。我々禅僧の理想です。
悪口は毒蛇である
2018-09-11
悪口は毒蛇と思え、受け取るな
ある日、お釈迦様が弟子たちと托鉢をしていると、「俺たちは働いているが、お前たちは何もしない。まるで乞食じゃないか」と罵倒されました。
それを聞いてお釈迦様は、「言いたいことはそれだけですか」とすぐに立ち去りました。
不満に思う弟子たちにお釈迦様は、「あなた方は、誰かが毒蛇を手渡してきたら受け取りますか?」と尋ねました。そして「受け取らなければ、その毒蛇は、渡そうとした者の手元に残るだけである」とお説きになりました。
理不尽な悪口を言われたら、それを毒蛇と思って受け取らない。それが仏の教えです。
ストゥーパ
2018-07-26
ストゥーパ(塔婆)
ストゥーパとは仏塔のことで、仏様を供養するため、インドで建立されたものです。
仏教が日本に伝わった時にも、仏塔が建立されました。法隆寺や興福寺などの五重の塔です。時の権力者が財力を尽くして建立しました。日本中の五重の塔はみなストゥーパです。
そのストゥーパを漢字にしたのが卒塔婆です。今では仏様や先祖を供養するために、私たち庶民でも建てられるようになりました。法事や施餓鬼で建てる塔婆、あの一本一本に仏塔建立と同じ功徳があるのです。
貫くもの
2018-01-27
去年(こぞ)今年 貫く棒の 如きもの 虚子
この句を鎌倉駅で見た川端康成は背骨を電流が流れたような
衝撃を受けたと言っています。
この「貫く棒」とは何でしょうか?
ある人には信念であり、ある人には生き様そのものでしょう、
さて、あなたの「貫く棒」は何でしょうか?
命のバトン
2017-10-8
けさ秋や 見入る鏡に 親の顔 鬼城
朝鏡の前に立ち、ギョッとすることがあります。自分の姿に親の面影を見るからです。
この命は両親から受け取ったものです。両親は祖父母から、祖父母はまたその親からと、想像もできない過去から受け継がれ、今は自分が握っている命のバトン。
それを仏教では仏心といいます。仏心一つだけを貰い受け、仏心を生き、仏心に帰る。みな仏の中の仏の出来事です。
私はどこへ去るのか?
2017-05-6
我が生 いずこより来たる 去って いずこにか行く
良寛さんの言葉です。自分はどこから生まれ、死んでどこに行くのか?
晩年の良寛さんはこう歌っています。
形見とて 何か残さん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉
自分は死んでも桜として咲き、ホトトギスとして啼き、紅葉となり色づく。
自然と一体になった素晴らしい境地です。
今を生きる
2017-01-26
咲くも無心 散るも無心
花は嘆かず 今を生きる
坂村真民さんの詩の一節です。私たちは過ぎた日々を後悔したり、自分の行く末を不安に思ったりして生きています。
しかし、過去は戻りません。未来はまだ来ていません。私たちが生きているのは、今だけです。
花のように無心に、今を精一杯生きましょう。
怒りと憎しみ
2016-09-18
人間の感情の中で、特に苦しいものが、怒りと憎しみの感情です。
心の中にある怒りや憎しみにどう対処したら良いか?という質問を多くの方から受けます。
仏教では、その心の調え方をこう教えています。
怒りや憎しみの感情を素直に受容し、その変容を待つ。つまり、
・怒りや憎しみには、もともと実体がない。
・ちょうど鏡に映った姿のようである。
・心の鏡に怒りや憎しみが、映れば映ったまま、おこれば起こったまま、やめば止んだままにしておく。
・時とともに、心は静かで平安な状態に変わって行く。
時間のかかる大変な行為です。しかし、怒りや憎しみを抱いている相手の変化はまず望めません。自心を変える、これが仏の教えです。
お盆と施餓鬼米
2016-07-2
お盆は、お釈迦様の弟子、目連尊者の故事に由来します。ある日、目連様が亡母の様子を神通力で見ると、亡母は地獄で苦しんでいました。驚いた目連様は、神通力の限りを尽くしましたが、どうしても救えません。
そこでお釈迦様に相談すると、厳しい夏の修行が終わる七月十五日に、修行僧たちに食事を供養するよう言われ、その通りにすると、亡母は天に生まれ変わったそうです。七月十五日は今ではお盆の明けの日に当たります。
お釈迦様は直接故人に供養するより、本当に修行している人を供養することが、故人の幸福につながると教えたのです。
洪福寺で、お盆・お施餓鬼に供養していただくお米は、全て建長寺の修行道場へ送ります。目連尊者にならい、日々厳しい修行に明け暮れている修行僧を供養することによって、先祖の冥福を願うことが、施餓鬼米の始まりです。
自力と他力
2016-06-9
よく禅宗は自力、真宗は他力の宗教などといわれていますが、そんな簡単なものではありません。
本気で修行する者は、見性や回心の前に自力・他力の違いを超えます。
道元禅師は「自己を運びて万法を修証するは迷いなり、万法来たりて自己を修証するは悟りなり」と言っています。
悟りは向こうから来るのです。まさに他力の心境です。しかし、そうなる為には大変な修行が必要です。
自力の果てに他力にいたり、他力の裏づけには厳しい自力があります。