「一口法話」一覧
六根
2020-02-5
六根(六つの感覚器官)
眼・耳・鼻・舌・身・意
眼に対しては色があり、耳に対しては音があり、鼻に対しては匂いがあり、舌に対しては味があり、身体に対しては接触感があり、意識に対しては存在があります。外の世界に対する六つの感覚器官が六根です。
人間は生まれる時、この六根だけを持って生まれてきました。真理を知りたければ、この六根の働きに任せきる。ころころと六根の動き働くままに任せきる。本当に心の手を放して、ただ六根の働きのままにある。
今の山梨県塩山市に向嶽寺という小さな本山があります。そこの抜隊得勝禅師という方に『塩山かな法語』という本があります。抜隊得勝禅師は、「見る者は何物、聞く者は何物」という公案で弟子たちを導きました。ただ見る者は何物、聞く者は何物と工夫する。
さて、何が見ているのか、何が聞いているのか。見る者は誰ぞ、聞くものは誰ぞ。寝てもさめても、見る者は誰ぞ、聞くものは誰ぞ、と。正解などありません。ただ、誰ぞー誰ぞーと己に問うているうちに、己が大きな?マークになります。三昧の?マークです。すると、答えは質問にあった、ということが分かり、そこに解決があります。
日日是好日
2020-01-26
日日是好日。普通「ひびこれ こうじつ」と読みますが、禅語では「にちにち これ こうじつ」と読みます。
昨日は良い日であった。今日も良い日だった。明日も良い日だろう。毎日毎日良い日・・・と取りがちな語ですが、この句はそんなに甘い言葉ではありません。江戸時代に活躍した禅僧、白隠禅師はこの句に対して次のような言葉を置いています。
「雨が続いて米がとれない。昨日は葬式、子供は病気、一日も良い日がない」
苦しみや悲しみに成りきった境地が、日日是好日なのだとこの言葉は教えてくれます。
主人公
2020-01-25
普通、この言葉は物語の主役を指します。しかし、禅語では見聞きし、考える主体を『主人公』と呼びます。
昔中国に瑞巌和尚という方がいました。変わった方で、毎日自分のことを、主人公ーーと呼び、自分ではいと返事をしていたそうです。そして、はっきりしていろよーと呼び、またはいと返事をして、人に騙されるなよーー、はいはいと一人でしゃべっていました。
この瑞巌和尚、実はとても立派な方で、ふざけて一人芝居をしていたのではありません。この方は、本当の自分を呼んでいるのです。心を呼んでいるのです。主人公ーーと。
前に『不識』の解説をしました。自分の心は振り返っても探せません。ここにこうして働いているのに、探すと見つからないのが心ですと。自分の主体『主人公』も同じです。振り返ってもそこにはいません。呼んでいるものが呼ばれているものだからです。だから振り返らずに主人公ーーと。成りきって、はい。はっきりしているかーー、はい。最後の人に騙されるなというのは、自他の分別をするな、ということで、自他を分けるなよーー、はいはい。ということです。
禅の要諦は、振り返らずに成ることです。見ずに成る。そこに『主人公』はいます。
不識
2020-01-24
この語は『無功徳』と答えた達磨さんと武帝の問答のつづきです。
いろいろ問答を重ねますが、武帝は納得しません。そしてついに最後の質問をします。「私の前にいるあなたはだれですか?」 そう問われただるま様は、
不識、知らん、と答えました。これは別に質問をはぐらかしているわけではありません。
考えてください。今見ているものは何か、聞いているものは何か、考えているものはなにか。自分を振り返ってそれを探しても見つかりません。それはそうです、探しているそれが探されているのですから。
だから『不識』です。
探すと心はどこにもないのですが、今ここに働いています。探さないで成る、これが本当の自分の見つけ方です。
無功徳
2020-01-23
これは、達磨大師が中国に渡った時、武帝とかわした問答からきています。
武帝は、沢山の寺を建て、多くの僧侶を育てました、その功徳をインドから来た達磨様に聞いたのです。
その答えは、無功徳、功徳などない、でした。
ある障碍者のおかあさんがいます。立派な方で、教えられることが多いのですが、その方は何か人のために行って文句を言われると、「ああ、よかった」と思うそうです。お礼などを言われると反対にがっかりするそうです。一方通行の、見返りを求めない功徳です。皆さんも料理などして、家族から「まずい」と言われたら喜んでください。それが、無償の愛です。
無功徳
こういう境地に入りたいものです。
一期一会
2020-01-23
一生に一度の出会い、という意味です。
皆さんとは、毎月お会いしていますが、これが一期一会です。今回の今日ここでの出会いは一度きりです。それを大切にする。
俳人の松尾芭蕉にこんな俳句があります。
よく見れば 薺花咲く 垣根かな
私たちが、見逃しやすいところです。ナズナとはぺんぺん草です。また、いつでもお目にかかれると思ってしまうところを、俳人は見逃しません。一期一会で、
よく見れば 薺花咲く 垣根かな
今、ここを大切に生きる。これが一期一会の精神です。
願い
2020-01-18
願い
日本を
楽しい国にしよう
明るい国にしょう
国は小さいけれど
住みよい国にしよう
日本に生まれてきてよかったと
言えるような国造りをしよう
これが二十一世紀日本への
私の願いだ
坂村真民
これは、元日に書かれた真民の願いの詩です。二十一世紀の日本を、戦争のない楽しく明るい国にしたい。
令和の世の安寧を祈念いたします。
戒名のはなし
2019-09-4
お通夜で読むお経は、得度式と同じもので正式に仏の弟子になるお経です。自分の人生を懺悔し、仏を師とする事を誓います。
仏弟子になると二つの名前が与えられます。
一つが道号、一つが法名です。○〇□□信士や信女、○〇□□居士や大姉の〇〇が道号で□□が法名です。合わせて戒名といいます。
ちなみに私も得度式で師匠から、宗禅という法名をいただきました。道場での修行を終えて後、卓道という道号もつけて貰いました。坊さんは生きているうちに戒名をいただくのです。
五蘊
2019-07-29
五蘊 世界や自分を構成している五つの要素
色・受・想・行・識
色・・物質
受・・感受
想・・想念
行・・意志
識・・意識
世界や自分を作っている、五つのものを五蘊といいます。これは簡単に言えば、物と心です。物と精神と言っても同じです。ここでは五蘊を自分を構成している五つの要素ととらえます。
この五つの要素ですが、お釈迦様は何故五蘊を説かれたのでしょうか。私の勝手な解釈かも知れませんが、お釈迦様は別に自分を作っているものを教えたかったのではないと思います。五蘊のどれにも、主体となるべきものはないと、自己など本当はないと教えたかったのではないでしょうか。物質は自己ではない、感受も意識も自己ではない。五蘊すべて自己ではないと。
大昔、中国に渓仲という車造りの名人がいました。その渓仲があるとき車をバラバラに分解して何事か考え込んでいた。渓仲は一体何をしていたのか。車をただの木片の集まりにして、そのどこに車の本質があるか考えていたのです。結局どこにも車の本質などない。集めて形作ってはじめて車が現れる。現れたものを仮に車と呼ぶだけです。
五蘊も同じです。自分をばらばらにして、肉体と精神に分ける。その精神も四つに分解する。そのどこに自己が有るか。肉体をばらばらにして、精神もばらばらにして、詳しく調べてみたが何処にも自分はいない。自己の中心は見つからない。それらを集めたものを仮に自分と呼ぶだけです。
達磨安心という話が伝わっています。後に達磨大師の法を継いだ恵可が始めて達磨さんにあった時の話です。その時恵可は「私は不安で一杯です。師よ、私を安心させてください」とうったえたそうです。それに対して達磨さんは「その不安な心を持って来なさい。安心させてあげよう」と仰った。その後、恵可は心を探し続けたが、どこにも心はなかった。そこで達磨さんに「どこを探しても心はありませんでした」と言った。達磨さんはそれを聞いて「君を安心させ終わった」と言った。恵可はそこで悟ったそうです。
心などどこにもない。これが無我の教えです。お釈迦様は、無我を弟子たちに伝えたいがために五蘊を説いたのだと思います。
四苦八苦
2019-06-9
四苦八苦
生老病死の四苦に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つを足したものを四苦八苦という。
最初の四苦、生老病死は生き物としての人間の苦しみ。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦は社会的苦しみ、五蘊盛苦は前の七つの総括と考えられる。
・生苦・・・生まれる苦しみ。
生きる苦しみではなく、生まれる苦しみ。生まれるのがどうして苦しみなのか。
生まれる以前は、自己は世界とひとつであった。世界そのものであった。それに肉体と精神いう枠組みを与えられるのが、生まれるということ。世界と一体の海からの自分というものの波立ち。
生まれたばかりの赤ん坊には、多分まだ分別は無い。母親を認識するのが、最初の分別。それから5年経ち、10年経ち、世界はこのようにバラバラに分かれてしまい、本来無かった自我まで形成されて、あたかも有るように見えてしまう。
・老苦・・・老いていく苦しみ。
齢をとり、足腰が弱り、眼は遠くなり、歯は抜け、今まで普通に出来ていた事が出来なくなる。だんだん体が思うようにならなくなる。
・病苦・・・病気の苦しみ。
動く事も難しくなり、機械につながれ、だんだんやせ細ってゆき、死を考えるようになる。
・死苦・・・死の苦しみ。
自我が消え去る恐怖。本来死ぬとは、また一体の世界に還る事なのだが、この肉体と精神という枠組みに囚われた我々は、そこに自我という無いものをあたかも有るように思い、その自我を失うことを恐れる。肉体と精神という枠組を使う主体と考える自我は、妄想であり、錯覚である。
・愛別離苦(あいべつりく)・・・愛する者と別離すること
家族や知人、どんなに大切な人ともいつかは分かれなくてはならない。最終的には、必ず人は死によって引き裂かれる。
しかし死とは無になることではない。全てになることである。そこを良寛さんは、形見とてなに残すらん 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉 と歌った。自分は死んでも春は花になり笑おう、夏はほととぎすとして鳴こう、秋はもみじとして色づこう。という意味です。良寛さんは死んで世界になっている。
・怨憎会苦(おんぞうえく)・・・怨み憎んでいる者とも交わらなければならない
仕事をしていれば、誰もが思うことです。また親戚関係、ご近所の関係、知人の関係、とにかく人間関係のあるところには、全てこの苦しみがついてきます。
何故他人を嫌うのか。多分お互い我を張り合っているから。自我をぶつけ合っているから。本来なかった自我を、成長とともにあるように錯覚した自我のぶつけあいが原因。
・求不得苦(ぐふとくく)・・・求める物が得られないこと
私たちには、あれが欲しいこれが欲しいと欲があります。美味しいものが食べたい。ブランドのバックが欲しい。海外旅行に行きたい。しかし、その多くはかなえられない。
高邁な願いであっても、かなえられない事が多い。たとえば平和。世界のどこかで人と人が殺しあっている。人種が違うから、宗教が違うからと戦っている。日本人のほとんどが、平和を願ってもそれはかなわない。求不得苦、求めても得られない。
・五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・・存在の苦しみ。
この世界に、肉体と精神という枠組みを与えられ、私たちは生まれて来てしまった。海から波立って生まれ来てしまった。そして、本来ない自我も年齢とともに発生して、世界はこのように分節した存在になった。
これは元一体の海だったものが、存在という波になってしまったことが、原因である。存在する事、あること、それ自体を仏教は苦と捉える。
しかし、良く考えれば、波は海で出来ている。この肉体という波も、精神という波も、みな海で出来ている。その海を仏という。我々は、仏の波立ちなのである。そこに仏教の救いを観るべきであろう。