途中と家舎

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途中と家舎

2022-01-12

臨済録に『途中と家舎』という公案があります。『途中に在って家舎を離れず』という一節と、『家舎を離れて途中に在らず』という一節です。

途中に在って家舎を離れず。途中とは修行のこと、家舎は悟りのことです。修行をしていて、悟りを離れない。つまり途中に在って家舎を離れずとは、悟りの中での修行ということです。

皆さんは、この迷いの世界から悟りの世界に抜け出ようとして、坐禅の修行をしています。それがすでに悟りの中での出来事だというのです。

しかし、迷いから悟りへ到る、も、修行して悟りの世界に行く、も、すでに相対に分かれています。迷いと悟り。修行と悟り。二つが対立しています。

こう二つに分かれたら中道を行くのが仏教です。たとえば、趙州の無字。これは有るか無いかに分かれています。そこで中道を行く。ただ中道とは中間にはありません。一方に成ったところが中道です。修行と悟りなら、修行に徹したところ、そこが中道です。坐禅がうまく組めないと、一所懸命に坐る初心の坐禅が中道を行っています。

以前、海と波の話をしたことがあります。海と波は、平等と差別です。

この海と波で坐禅の境地の変化を現わせば、『波は波』から『波は海』になり、ついに『波はただ波』となります。

修行前は、波は波、概念の波です。言葉で名付けて、逆に言葉に騙されています。

悟った後は、波はすべて三昧の海です。これが途中に在って家舎を離れないところ、悟りの中での修行です。

長養すると波はただ波になります。これが家舎を離れて途中に在らず。もう何処にもいません。悟りにも尻を据えない。

皆さんはすでに出来上がっています。悟りの中での修行です。せっかく出来上がっているのに、皆さんの思いがそれを邪魔しています。何とかしようとして、思いを思いで、分別を分別で離れようとしています。コップの泥水を澄まそうとしてかき混ぜている。手を出すだけ濁ってしまいます。

三昧は働きです。その逆は、考えること、思うことです。三昧は一方向きです。しかし、この頭は振り返ります。

以前、妻がものを考えずにいることができる、と言った方がいます。その方の奥さんは、考えることではなく、働いているのです。家舎を離れて途中に在らず、を実行しています。ただ自分が一体になっていることに、一体なので気が付きません。三昧の状態にあるので、振り返らないから気づけません。自覚のない仏です。

自己と世界は、本来一体なので自覚がないのが普通です。禅僧の多くは、悟りの自覚なく働いています。普段、空気の存在に気がつかないかないようなものです。

ただ仏の働きだけが、そこにはあります。これが無心です。