十牛図 第七
2019-07-30
第七 忘牛存人
序
法に二法無し、牛を且(しばら)く宗と為す。
真理は二つない、牛を悟りに譬えている。
もはやその牛も忘れ去った境地です。悟りも忘れ去った境涯。昔から、味噌の味噌臭きは上味噌にあらず、悟りの悟り臭きは上悟りにあらずと言います。牛を、悟りをすっかり忘れ、しかも悟りを離れない。すりあげた境地です。
蹄(てい)兎(と)の異名に喩え、筌魚(せんぎょ)の差別を顕わす。
兎とわな、魚と筌の違いのようなものだ。
前前回の牧牛までは、鞭や縄も必要だった。しかし、もう牛すらいない。どうして鞭や縄が必要であろうか。経典の比喩に有るように、河を渡り終えたならば、もう筏は不要です。
金の鉱を出づるが如く、月の雲を離るるに似たり。
金が鉱山を出て、月が雲を離れるように。
出て離れて、牛はどこに行ったか。ここにいます。牛は人の中にいる。色が見える。音が聞こえる。思うことが出来る。皆、牛の働きです。振り返ってもどこにもいないが、ここに自由に働いている。
一道の寒光、威音(いおん)劫外(こうげ)。
ひとすじの光は、昔から変わらない。
趙州の露尽剣です。一心です。これが分かれて六根になる。振り返っても六根の主人公には、お目にかかれない。どうしても六根では六根を使う主人公は、見えない、聞こえない、感じる事も出来ない。見たり聞いたりしているそいつが主人公だからです。考えているそいつが主人公だからです。だから自分を振り返らずに六根の働きに成る、成りきる。
頌
牛に騎って已(すで)に家山に到ることを得たり
牛に乗って家に帰り到った。
自己本分の家郷に帰った。本分の家郷は今ここです。
牛も也(ま)た空じ人も也た閑(しずか)なり。
牛を忘れ去り、人ものどかである。
牛は忘れているが、見るもの聞くもの、すべて牛です。また見ている、聞いている者も牛です。天地と一体になって牛のみです。
紅日三竿猶(なお)夢を作(な)す。
もう日も高いというのに、まだ夢うつつだ。
大閑がおあいたところです。
鞭(べん)縄(じょう)空しく頓(さしお)く草堂の間。
鞭も縄も小屋の隅に置いたままである。
牛を忘れさったので、手綱などにはホコリがかぶっている。
悟後の修行の行き着いたところです。